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 もしかして、大変なことになっているのではないだろうか。ロゼアが。そうナリアンが思い至ったのは、ソキがリトリアと喧嘩したと日誌に書かれてから、一週間も経過した朝のことだった。なぜそんなにも時間がかかったのかと言われれば、その前日にようやく花舞の狂騒から一時解放されたからであり、その日を休日として与えられていたからだった。
 まだ『学園』の生徒の身で卒業資格さえ持たないのに、女王陛下から休暇を許される、という超常現象に誰も突っ込んでくれないことを深く考えないようにして、ナリアンはようやくハッキリとした意識で、朝の食堂を見回した。思えば、寮でゆっくり食事を取るのも久しぶりのことである。ずっと漂っていた落ち着きのない緊張はすでになく、そこは日常を謳歌する心地よいざわめきと活気に満ちていた。
 天からひかりが降り注いでいる。ステンドグラスを通して満ちる、朝のひかりだった。外はよく晴れて穏やかでいるらしい。室内に嵐が訪れていようとも。ナリアンはふっと笑みを深め、やや逃避させていた意識を手元まで引きずって戻した。ソキの一大事、というより、それに直面し続けるロゼアの精神の摩耗が一大事だからである。
 やんやんにゃあぁっ、とふんがいした、拗ねた、はちみつめいた声がぽわぽわと漂ってくる。
「だって、だってぇえ……! ソキ、ソキのぱぱだも! リトリアちゃんのじゃないも、ないもーっ!」
「ソキ、ソキ。叫んだら駄目だろ。……ほら、朝ごはん食べような。おなかすいたな」
「ふぇ、ふぇっ……そき、おなかがすかなくなっちゃったも……ロゼアちゃんの、あーん、ならたべられるかもしれなです……リトリアちゃんも、ぱ、ぱぱに、あーんを……そきだってしてもらったことないですうぅう……あーん、ぱぱの、ぱぱのあーん……!」
 リトリア本人が聞いたら、そんなことはしてもらっていませんほんとなの信じて、と顔を真っ赤にして蹲りかねない発言にも、ロゼアは根気強く、俺があーんするからいいだろ、とソキに言うばかりだった。気がつけば一週間、この状態が続いている。寝ても覚めても、なにをするにしても、ソキはずっとこの調子でぐずっているのだった。起きている間になんとかロゼアがなだめても、眠って夢を見てはふりだしに戻るらしい。
 おかげでこの一週間、ラーヴェという名を聞かない時がなかった、と寮生たちは口を揃えて証言した。ソキちゃんのお父さんなんでしょ、いやロゼアは違うって言ってる、それまさかパトロン的な意味でのパパなの事案にすぎる、リトリアちゃんも拾ったパパなんでしょすごすぎない、『お屋敷』の前の御当主さまだって聞いたけど、でも砂漠組がすごい勢いで否定してたよねそれ。
 ともあれリトリアちゃんと一緒にいたひとなんでしょ、そのソキちゃんのパパ、お友達のお父さんが保護者してくれたと考えればなんとかなるようなならないような、それにしてもソキちゃんそんなに嫌だったんだねぇ、ねえロゼアくん憔悴してない大丈夫なの、ソキちゃんはやく落ち着くといいね、リトリアちゃんがしょげてるって聞くし、と生徒たちの噂話も活発に飛び交っていた。
 さて、どうしたものだろう。ナリアンはなんとかソキを落ち着かせ、膝の上でヨーグルトをあーんと食べさせているロゼアを眺めて眉を寄せた。事件の前から元気がなかったが、今日は顔色さえ悪く見える。ぐずっ、ぐずっ、と赤く腫れた涙目で鼻をすすりながら、なんとかもきゅっとヨーグルトだけ平らげたソキの食事が一段落するのを待って、ナリアンはロゼア、と親友の名を呼んだ。
「今日はなにか予定ある? なかったら、みんなでお昼寝しようよ」
「……おひるね、すぅ」
「ほら、ソキちゃんもこう言ってることだし」
 ソキの表情は明らかにふて寝したがる者のそれだったが、ナリアンはあえて触れず、にっこりとロゼアに笑いかけた。ソキがもちもちぎゅむぎゅむし続けているせいですっかり平べったくなったアスルを取り上げ、ぽんぽんと綿を叩いてまるく戻したロゼアは、それを再び『花嫁』に受け渡しながら、憂いを帯びた瞳で呟く。
「うん……。ソキ、俺と一緒に眠りたい……?」
「むむっ。ソキ、ロゼアちゃんと一緒じゃないなら、おひるね、しなぁーいー! ロゼアちゃんと一緒がいいの! ロゼアちゃんとお昼寝したいの! すきすきなの!」
「うん。……うん、じゃあ、そうしような、ソキ」
 ほっ、とした微笑みで。ほわりと、すこし満たされ、心から安堵したようにロゼアは笑った。その顔に、思うところもあるのだろう。ソキはまだ拗ねた顔で唇を尖らせているものの、ロゼアの膝でもそもそと座り直し、無言でぴとりとくっついた。慣れた仕草で、ロゼアは『花嫁』を抱きとめる。ゆらゆらと揺らされながら、ソキはしょんぼりした声で、ちがうんだもん、と言った。
「ソキはロゼアちゃんがいっとうすきすきなんですよ。ロゼアちゃんが好きなの。ほんとうなの。ほんとうなんですぅ……」
「うん。俺も好きだよ、ソキ。……じゃあ、もう、ラーヴェさんのことはいいだろ……?」
「ロゼア、ロゼア。いったん、それ、置いておこう? ソキちゃんもだよ」
 ナリアンが見たところ、ソキがなにかとぶり返してしまっているのは本当なのだが、ロゼアも無意識にむしかえしては悪化させている。もういい、として落ち着きたいのだろうが、今のソキには通じる方法ではなかった。えっ、とばかりまあるく見開かれたソキの目が、またうるりと涙を浮かべる前にどちらのことも止めて、ナリアンはロゼアに笑いかけた。
 ささいな言葉の行き違い、誤解、解釈違いが一瞬で混沌と化す花舞という戦場から帰還したナリアンは、いったん停止させて先送りにする、という事の大切さを学んでいた。すぐに答えを出せばいい、ということばかりではないのだ。
「あのね、ロゼアは疲れてるよ。だから、今日はあんまりおはなししないで、ゆっくりさせてあげようね、ソキちゃん。ロゼアも。ソキちゃんと一緒に、なにか楽しいことするといいよ。それについて話すんじゃなくてね」
「……ナリアンが、そう、言うなら」
「ありがとう、ロゼア。俺に免じて、今日はこらえてね。ソキちゃんも」
 不服げにぱちぱち瞬きをした『花嫁』は、しかし無言でこっくりと頷いた。あするぅ、としおしおした声が落とされ、頬がくしくしと擦り付けられる。じゃあ、なにをしようか、とぼんやりとした声で呟くロゼアに、とりあえずご飯かな、とナリアンは椅子から立ち上がった。
「ご飯食べよう、ロゼア。いつもより全然食べてないだろ。持ってくるから」
「……ごめんな、ナリアン」
「ロゼア。ありがとう、がいいな。……いいよ、気にしないで。ちょっと待ってて」
 ロゼアが食べれば、つられてソキもなにか口にする筈である。入学してからこの方、ずっとそうだったからだ。ソキの食欲がふるわないのは、ロゼアがなにも口にしていないせいもあるだろう。ナリアンでさえ察しがつくところにロゼアが思い至れていないとすれば、それこそ重症の証である。俺が戻ってくるまでもそれについて話したらだめだよ、ソキちゃんはなにか嬉しいことをおしゃべりすればいいんじゃないかな、と念押しして、ナリアンはざわめく食堂をすいと移動した。
 混雑が一段落した時間だから、さすがに並ぶ料理の数は乏しい。その中からロゼアとソキの好物を選んでひょいひょいとトレイに乗せていると、その端に、すとん、とばかり妖精が舞い降りた。おはようございます、リボンさん、と告げるナリアンに、妖精はおはよう、と感心している声で返した。
『アンタ、やるようになったじゃない。褒めてやるわ。……ところで、身長伸びてない?』
「ありがとうございます。身長は……特に」
『ふぅん。じゃあ、背筋が伸びたのね。姿勢がいいもの。ずっとそのままでいなさいよ。ロゼアみたいにうじうじうじうじしないでね!』
 息をしながらロゼアに毒づく妖精に苦笑しながら、ナリアンははいと頷いた。ナリアンが素直なことにいたく満足した頷きを見せて、妖精はそれにしても、と面倒くさそうな顔をした。
『ソキったら、まだぐずってるの? よくも飽きずにいつまでも……』
「あの、宥めてくださったりは……?」
『アタシ? アタシはもう怒ったし話も聞いたし言い聞かせたけど、ああなると駄目ね。飽きるのを待ちなさい。あれはなんかもう、ぐずって悲しくなってるのに悲しくなって、自分でもよく分からなくなってまたぐずってるだけなんだから。あー! どんくさいったらありゃしないわよ!』
 だいたいロゼアもロゼアよ、ちょっとほっとけば落ち着くってのにすぐにつついてまたぴいぴいさせてロゼアあのヤロウ覚えてやがれ、と口汚く罵って、妖精はぎろりとトレイに置かれた小鉢たちを睨みつけた。食べ物に罪はない。呪わないでくださいね、と懇願するナリアンに、妖精はふんと鼻を鳴らしてトレイの端から飛び立った。
『アンタ、ひとりなの? ニーアは?』
「久しぶりに、花園でゆっくりしておいで、と昨夜」
『言っておいてあげるけど、ソキ程じゃなくとも、ニーアも十分そういうとこあるから。ゆっくりさせたいなら、アンタの服のポケットにでもいれて眠らせておくのが一番よ。まあ、たまには一人でやりたいことなんかもあるでしょうけど』
 たぶんアンタが花舞でなにしてたか、今日の昼には花園中の妖精たちがうんざりするほど知ってるわよよかったわね、と言い放って。妖精は飲み物用に置かれていた角砂糖を無断で拝借すると、がりがりと不機嫌にかじりだした。
『あー、もう! 落ち着かないったら……! リトリアったら、とんでもないことしてくれたわね……!』
「リボンさんにも、なにか?」
『アタシにじゃないわよ、ソキによ、ソキに。アタシの魔術師ですもの。ああもいつまでもどんくさくぐずられたら、アタシにも多少の影響は出るのってこと! 気分が落ち着かなくて苛々するのよ……ロゼアの髪で占いでもしてやろうかしら……抜いた本数でアタシの気持ちがすっとするような、こう』
 占いでもなんでもない、ただの嫌がらせである。円形にしたり、模様を描いて遊ぼうかしら、と多少の本気を感じさせる目で呟く妖精に、ナリアンは心から、やめてあげてくださいね、と言った。親友の頭髪が犠牲になる所など見たくない。それに、そんなことしたらソキちゃんだって怒りますよ、と言い添えると、妖精は気に入らない様子で腕組みをした。
『なによ。抜け毛の十本や二十本、生活上の誤差でしょう。そう思い込んでアタシの気持ちを晴らしなさいよ』
「なにとぞ、なにとぞ他の手で……!」
『はぁん? ……そうねぇ』
 心底気が進まないという声を出しながらも、考えてくれるのが妖精の面倒見の良い所である。妖精が悩みながら空を漂っている間に、ナリアンはてきぱきとロゼアに食べさせるもの、ソキが好きそうなものをかき集めて席へと足を向ける。曳行されるような動きでついていきながら、妖精が名案、という顔をして言った。
『増やすわ』
「待ってください! なにをですかなにをですかっ?」
『ロゼアの髪。なんか適当な毛を植えたりするの。犬とか猫とか。あと飾ったりしようかしら。松ぼっくりとかで』
 親友の一大事である。じゃあ、アタシ材料集めてくるからソキのことよろしく、と何処ぞへ飛び去ろうとする妖精を素早く捕まえる。ダディ、蝶々さんの捕まえ方を教えてくれてありがとう、と走馬灯のように言葉がかけめぐった。怖い。ナリアンはあぁんと睨まれるのに怯みつつ、えっと、となんとか言葉を絞り出した。
「ソキちゃん……ソキちゃんの髪に、お花を飾ったりする方が楽しいのでは……!」
『……あら、それもそうね。そうするわ』
 なんで最初からそう思わなかったのかしら、やっぱり調子が悪いのねロゼアのせいだわまったく、と息をしながら毒づいて、妖精はナリアンの指を蹴飛ばして逃れると、ひらりと離れていく。気がついたソキが、あぁあぁんっ、と悲しそうな声で、ロゼアの膝上でちたぱたと抗議する。
「りぃぼんちゃーぁー! どこいくですぅー! いやいやだめだめとんでもないことですうううう!」
『はいはい大人しくしてなさいすぐ戻るから!』
 彼方から怒鳴りつけるように言い放ち、妖精は飛び去ってしまった。できれば目的も言っておいて欲しかった、と思いながら、ナリアンはお待たせ、と告げて机にトレイを置く。ん、とだけ返事をするロゼアはやはり元気がない。すぐに礼儀正しく、ごめんな、取ってきてくれてありがとう、と告げられるのに笑って、ナリアンはいいよ、と言った。
「たまには俺にも、ロゼアの世話させてよ。……意外と楽しいし。ロゼア、なにかしてほしいこと、ない?」
「あっ、ソキも! ソキもするっ! ロゼアちゃん? ソキにしてほしこと、なぁんでも、いって、いいんですよ? ねえねえ?」
 きらんと目を輝かせるソキの横顔が、これはチャンスですぅっ、と言っている。思わず笑うナリアンにも構わず、鼻息荒く待つソキに、ロゼアはんー、とのんびりした声で囁いた。
「ソキは、なにか、俺にして欲しいことある?」
 はい、あーん、とソキの口元にとろけるチーズの乗ったじゃがいもを差し出す仕草は手慣れていた。ふんすっ、と鼻をならして、あむむっ、と食いつくソキに、ロゼアはほわほわと嬉しそうに笑う。
「おいしいな、ソキ。ご飯食べるの偉いな、かわいいな」
「でえっしょおおおぉおっ? ソキぃ、えらくて、かわいいんでぇ」
「そうだな、かわいいな。はい、あーん」
 きゃふふふっ、あーんっ、とすっかり嬉しくなって食べはじめるソキを眺めながら、ナリアンはロゼアも食べなよ、と言った。分かってるよ、とソキと同じフォークで交互に食べあいながら、ロゼアはてきぱきと、ソキが何をして欲しいのかを聞き出している。ソキの希望を叶えるのが、ロゼアのしたいこと、であるから。
 すこし落ち着いたならいいけど、とナリアンはそっと息を吐いて、ロゼアとソキを見守った。



 妖精が摘んできた花で髪を飾られ、すっかり機嫌よくなったソキは、ロゼアの膝上でふにゃふにゃと鼻歌を歌っている。真剣に耳を傾けて歌詞を解読した結果、ロゼアちゃんすきすきのうた、ロゼアちゃんの好きなとこと素敵なとこ、を延々と述べ連ねているだけだったので、はいはい通常通常分かっていたじゃないのアタシ、と好奇心を持った己にうんざりしながら、妖精は慎重にロゼアの周りを飛び回って、その顔色や魔力を観察した。
 いったいなんで、妖精がそんな手間暇をかけてやらねばならないのか。どうして必要な時に限ってシディはいないのかしら、と呟くとソキが顔を赤らめてきゃあんともじもじしたので、妖精は即座に、違うから、と訂正した。ソキが考えているような、会いたいとか顔が見たいとか、そんな理由ではないのである。必要な時に筆記用具がないようなもどかしさで、それ以上でもそれ以下でもないのだった。
 傍にいないことが不満なのは確かだが、それはロゼアに詳しいシディがいないせいで、ソキの為に妖精がその手間をかけなければいけなくなるからである。ロゼアのことなど、シディに聞くくらいで済ませていきたい。ただそれだけの話だった。しかしいくら言葉を重ねても、言葉を重ねたその分だけ、誤解を加速させてこじらせるのが、ひとのはなしをきかないソキという存在だった。
 ご機嫌に興奮したふわふわした口調でいつものように、ソキにはわかってるんでぇっ、と力強く言い切ったソキは、うんざりして額に手を押し当てる妖精にいやんいややんと身をよじり、楽しそうに目をきらめかせてロゼアに囁いた。
「あのね、あのね、ロゼアちゃん。きっとこれは、離れる時間がふたりの仲を深めていく、というやつにちぁいないです……! 会えない時間……ふとした時に感じるせつなさ……さびしくてかなしいきもち……そして再会と、た、たかなるこどうとともにだきしめあうふたりー!」
『発音があやしくなってるわよ、ソキ……』
 妖精にも分かる、『学園』に来てからのロゼア最大の失敗は、ソキからその手の恋愛小説を取り上げ切ってしまわなかったことである。ロゼアが本気で心から怒れば、さすがにソキとて手を伸ばし続けないだろうに。だめだろ、どうして言うこと聞けないの、などという角砂糖のような注意で終わっているのが悪い、とソキに甘い妖精は思っている。『お屋敷』にはなかったものなのだ、とソキは言った。
 そういう身分差であるとか、幼馴染であるとか、駆け落ちだとか運命の恋だとか、そういう類のものはごく当たり前のこととして、丁寧に慎重に『お屋敷』から抹消される。影響があってはならないからだ。ロゼアはさすがに存在くらいは知っていただろうが、ソキはそんなものがあるとも考えたことがなかっただろう。つまり。恋愛小説というそのものが、単純に、ソキにはあまりに刺激が強いのだった。
 まぁたそういう本を読んで、どうして駄目っていうのが聞けないのかしら、と周囲からしてみれば十分甘い叱責をする妖精に、ソキはだってぇえ、とくちびるを尖らせる。ぷっくり膨らんだその頬のまるみを、ロゼアの指がするりと撫で下ろした。ソキ、と静かな声が『花嫁』を呼ぶ。
「……ソキは、そういうのが、いいの?」
 なに言ってんだコイツ、というのを隠そうとしない妖精の睨みに対して、ソキはロゼアの言葉の意味を、決して違えることがなかった。ロゼアちゃん、とソキが呼ぶ。なにものにも疎く整えられる『花嫁』の心は、一番大切なことにだけは、手を伸ばすことを失わないでいる。
「ソキ、ロゼアちゃんに会えないのはね、もう毎日しているから、いいんですよ。これ以上増えたらやんやんです!」
「……毎日一緒だろ?」
「ロゼアちゃんは毎日! 朝の運動にソキをおいていくですぅ。ソキはまいにーち、さみしくて、せつないです。よくないです!」
 毎日ぐぴぐぴ眠っておいてよくその主張ができるものだ、と妖精は呆れを通り越して感心した。昨日だって今朝だって、確かにロゼアはソキの言う通り朝の運動にでかけて行ったが、このどんくさい妖精の魔術師はぷすぴすと寝息を漏らして眠るばかりで、ちっとも起きはしなかったのである。たまに戻ってくる前に目を覚ますことがあるが、ロゼアがいない隙に好き勝手遊んで力尽きて眠るのがせいぜいで、寂しいだの切ないだのを感じでいるようには見えなかった。
 一昨日だって、んもおおお、とほよほよした寝ぼけ声で怒っていはしたが、すぐにロゼアのローブに首を突っ込んでもちゃもちゃと着てみたり、くしくし匂いをつけてみたり、あっいまのうちにしっぱいししゅうをさがさないとです、とあちこちひっくり返して、力尽きてまた寝たのを、妖精はよく覚えていた。ロゼアもさんざん、見知っている筈である。
 それなのに心から安堵した顔をして、ロゼアはそっか、とソキを大切そうに抱き寄せ直した。
「じゃあ、離れないで一緒にいような」
「もちろんですううっ! ソキ、ロゼアちゃんと一緒にいたいんでぇ、ずーっと、いっしょ! なんでぇ! うふふふん!」
 もしかして、と妖精は呻くように、ひとつの答えに行きついて頭を抱え込んだ。この二人を離したとして。ただ単純に時間制限をつけて距離をもたせただけだとしても、駄目になるのはロゼアなのではないだろうか。ソキはもちろん、即座に肉体的に弱るだろうが、そうではなく。ことソキに関してのみ、精神的に弱いのは、恐らくロゼアの方である。
 同情の余地が有り余るほど、心痛の理由も原因もありすぎるのだが。あー、と低く唸って、妖精はきゃっきゃとはしゃぐソキの、目の高さまで舞い降りた。
『決めたわ、ソキ。教育しなさい、教育。ロゼアのねっ!』
「ふんにゃっ? なぁに? なぁに?」
『アタシに、もしかしてソキの方が打たれ強いんじゃないの……? なんて気の迷いを抱かせないようにしなさいって言ってるの!』
 ソキは、ちっともさっぱりなにひとつ分かっていない顔で、わかったですぅ、と言ってこっくり頷いた。
「ソキ、ロゼアちゃんのきょーいくをするぅ! ねえねえロゼアちゃん? きょーいくって、なにをすればいいの? おべんきょ?」
「うん? じゃあ、今日は一緒にお昼寝しような」
「ソキ、ロゼアちゃんのいうとおりできるぅー!」
 ソキがなにか説明したりする時の、それでね、からの文脈が前後全く繋がっていないのは、明らかにロゼアがこうやってころころ転がすせいである、と妖精は思っている。じゃあ、というのは、そういう風に使う言葉ではなかった筈だ。すごいな、言う通りできるんだな、偉いな、かわいいな、かわいいかわいいソキ、かわいいな、ソキかわいいな、と機嫌よく、いつものようにせっせとソキを褒めだすロゼアを眺め、妖精は深い深いため息をついた。
 ロゼアの改善は、ソキには荷が重すぎるような気がしないでもない。しかし、妖精はそんなことをしたくないのである。そうすると残りはシディくらいしか心当たりがないのだが、あの鉱石妖精はどこをほっつき歩いているのだか、数日姿を見せないでいるのだった。ニーアはどうせ今日中にはナリアンの元へ戻ってくるだろうし、来たらシディを見なかったか聞いておこう、と思い。
 ニーアはニーアでソキと同じ種類の誤解を加速させるのだということを思い出し、妖精はうんざりと首を振った。味方がいない。唯一、そのあたりの機微が分かりそうなルノンは、メーシャと一緒にせっせとラティの元に通っているせいで、昨日から花園で休息している筈である。砂漠はまだ、妖精にとって気楽に行き来できる状態に戻ってはいない。
 表面的に落ち着いたのだとしても、妖精が楽に飛び回るには、下手をすれば数年かかることだろう。あの国の魔術師は代々不屈であるから、諦めず、必ず元に戻すだろうけれど。そうだ砂漠と言えば、と妖精は羽根をぱたつかせながら談話室を見回した。そこに集っているのは在校生ばかりである。荷を運ぶ妖精は朝と夕方に訪れるばかりだから、同胞の姿を見つけ出すことも叶わなかった。
 リトリアが騒ぎを起こす前に聞き出すんだったわ、と舌打ちする妖精に、ソキが不思議そうな目を向ける。
「リボンちゃんたらぁ、ふきげんさん? ソキと一緒におひるねしましょう?」
『嫌よロゼアとも添い寝になるでしょうが。別に眠くて機嫌が悪いわけじゃないの。大丈夫よ』
「うむぅ……? むーん。……うん、でもぉ、ロゼアちゃんの添い寝はソキの。ソキのなんでぇ……じゃあいいですぅ……」
 一応、そこから慎重に見守ってはみたのだが。心底しぶしぶ頷くソキの口から、ラーヴェの名がこぼれることはなかった。ロゼアも、朝にナリアンに窘められていたから、堪えたのだろう。視線をすこしだけ反らして沈黙したあと、ソキが言い出さないのにほっとして、『花嫁』の、その麗しき髪をさらさらと撫で下ろしている。
 気がそれていてたまたま言い出さなかっただけなのか、添い寝についてはソキの中でロゼアと決まっていたり、なにか他にあるのかは分からない。しかし、納得して受け入れたとはとてもではないが楽観できないので、妖精はあぁめんどくさいと息を吐き出した。一度そうなるとソキがどれくらいしつこいのか、妖精はよく知っている。
 なにか上書きして忘れ去らせるような事件事故なかったかしらと羽根をぱたつかせ、妖精はあら、と思わず呟いた。ちょうどいいものがあった。時期的にも、そして、ソキの好みから考えても。やや警戒の視線を向けてくるロゼアを挑発的に笑い飛ばして、妖精はふあふあとあくびをするソキに、そういえば、とその水を向けた。
『砂漠の王陛下のことだけど、ソキも魔術師のたまごなら、先達に習って賭けに乗ってはしゃいで来なさいな。アタシはもう半年以内に賭けてるから。一番人気は三ヶ月以内だけど』
「ふにゃん? ……かけぇ? かけって、なぁにー?」
「ソキはしないでいいことだよ。……リボンさん、そういう世俗的なことはちょっと……先に相談して頂けませんでしょうか」
 ロゼアちゃんがそういうなら、ソキ、しらなぁい、と言いながらも、妖精には未練がましい視線が向けられている。アンタの教育基準こそ明確にしなさいよめためたに酷評するから、と言い放ち、妖精は腕組みをして言い放った。一応、ロゼアの手が届く範囲から避難しつつのことである。
『ロゼアだってすればいいじゃない。アンタんとこの『お屋敷』だって、祝い事の時期は把握しておいた方がいいでしょう? 準備だってあるんだから』
「……すみません、話がつかめません。なんの……どういったこと、でしょうか? 慶事の……予定……?」
「きゃっ、きゃああぁあーんっ! ままままままさかもしや、もしやーっ!」
 事情を知らないロゼアに比べて、ハレムに出入りしていたソキには察するものがあったらしい。蜂蜜よりとろけたはしゃぎ声で頬を赤らめ、きらきらした目でこゃんきゃんはしゃぎだすソキに、悪いことではない、と警戒を解いたのだろう。ソキとこつりと額を重ね、なぁにソキ、なんのはなし、とざらざら砂糖を含ませた声で問いかけるロゼアに、『花嫁』はきゃあぁあんっ、と身をよじって言った。
「陛下の初恋が実っちゃうかもなんですうううう!」
『ねえ、純粋に疑問に思ったんだけど、それはなんていうか口に出して流布していいの? 初恋とか。言っていいの?』
「……砂漠の民には周知の事実ですので……」
 そっか、それは嬉しいな、嬉しいソキかわいいな、かわいいなソキ、よかったな、と『花嫁』を抱き寄せてあやしながら。ふと疑問に感じたようで、ロゼアの視線が妖精に向いた。
「リボンさんはなぜ、その情報を……?」
「あのね、ロゼアちゃ? ソキのぉリボンちゃんはぁ物知りちゃんなんでぇ」
『言っとくけどアンタたちが気がついてないだけで、ナリアンも話くらいはどっかで聞いてる筈よ。メーシャなんて毎日砂漠に行ってるんだから』
 あっ、ソキはなんだか仲間はずれにされていたような、と頬をぷっと膨らませるソキに、妖精はもうすこし素行を見直してから拗ねなさい、と息を吐く。この一週間、ひがな一日ラーヴェラーヴェとやんやんしていなければ、ねえ知っている、と囁くものもあっただろうに。そこう、いいもん、ソキ、いいこだも、とちたちたしながら主張するソキに、はいはいそうねと頷いて。
 妖精はそういうことだから、とロゼアに向かって言い放った。
『そういう準備は時間がかかるんだから、そっちも進めておいた方がいいんじゃない? 見たとこ、まだなにもしてないみたいだし』
「……そっち、も……?」
 うん、と訝しむロゼアに、妖精は羽根をぱたつかせながら問いかけた。
『なに? 今年は帰らないの?』
「……かえるぅ?」
 くてん、とソキまで首を傾げたので、妖精はぴしりと談話室の壁、そこにかけられた暦表を指さしてやった。気がついていなかったんだな、と思いながら。
『もう数日で長期休暇でしょう?』
 あ、とロゼアとソキが声を漏らし、談話室からも輪唱のように声がこぼれ落ち。やがて、妖精が嫌な顔をして耳を塞ぐほどの絶叫が、いくつもいくつも迸る。季節は夏を超え、秋を終えて冬。年明けを真ん中に挟んでの二ヶ月、『学園』は閉鎖される。その開始は、もう来週に迫っている。今日は週半ば。すなわち。長期休暇の予定をたてて、動かなければいけない時期は過ぎているのだった。



 ちょっと待って世界の時の流れが私をおいて行ってたんだけどどういうことなの、えっほんとだ待って待ってそうすると今年まともに授業受けられてないんだけど、帰省するって手紙出さなきゃ寮長助けて寮長手紙出したいですっ、ねえねえそれより今年も普通に帰れるんだよねあんな騒ぎがあった後だけど普通に帰っていいんだよね外出制限とかつかないよね、特にそういう回覧とか来てないよね。
 星降の陛下からはなにも言われてないけどあれ言わなかったっけごめんなーほんとごめんなーって言われる可能性を捨てきれないだって星降の陛下だものやらかしかねないもの。ああぁあそんなことより年中行事ひとつすっ飛ばしてるよね今年パーティーやったっけ記憶にない、やったんじゃなかったっけやってなかったっけ、もはや自分の記憶が信じられない、あれは本当に今年のことなのそれとも去年なの。
 いやあぁああ帰省の時に毎年持ってくお菓子の予約締め切り過ぎてるーっ、馬車の手配とか間に合うかなというか服とか買おうと思ってたんだけど忘れてたちょっと待ってあと休日何回あるのそもそも出かけていいのやだーっ、と、あちこちから迸る大混乱の阿鼻叫喚で混沌と化した『学園』の空気に、帰って来たメーシャはひとりのほほんと、あぁそういうことだったんだね、と頷いた。
「また誰かになにかあったのかなって、驚いちゃった。あっという間の一年だったもんね……」
 ちなみに、パーティーは今年きちんと開催されていた。記録を掘り返していた者たちからの報告を受け、今年だったーっ、という叫びがまた談話室に響いていく。先輩たちは今日も元気だね、と穏やかなメーシャの隣に腰かける、ナリアンがややうつろな目で口を開いた。
「俺いま恐ろしいことに気がついちゃったんだけどそろそろ時期的にも必要だろうってロリエス先生が花舞の王宮に部屋を用意し始めてるって言う噂はまさか」
『大丈夫よ、ナリちゃん! ニーアがついてるわ!』
 頑張ってっ、負けないでっ、と応援するニーアに、ナリアンは力ない笑みを浮かべた。どうしてだろう。家にも帰してあげないとね、と麗しく微笑む花舞の女王が、特別に数日の休暇をくださる未来が見える。あれおかしいな、俺まだ卒業してなかったよね、王宮魔術師じゃない筈なんだけど、どういうことなんだろう、なにかおかしい気がするんだけどどうして誰も指摘してくれないんだろう意味が分からない。
 宮仕えとは、卒業とは、と真顔になりだすナリアンに、ソキが慌てた様子で机に身を乗り出し、湯気の立つカップをずずいと押しやった。
「な、なりあんく、ナリアンくん! おちゃ、おちゃですよ。ひといきついて、おやすみくださいです!」
「ありがとうソキちゃん……。ソキちゃんは今年もお家でゆっくりするんだよね? ロゼア。また、旅行して帰るの?」
「そのつもりだよ。ただ、馬車の手配が間に合えば、かな……」
 ソキ、ロゼアちゃんとりょこ、するっ、かんこー、するっときらきらした目でおねだりしてくるソキを抱き寄せ、そうだな、と『傍付き』は穏やかに返す。俺はじゃあ、今年も砂漠で出迎えようかな、とメーシャはくすくすと笑って言った。おかえりなさいを言うのを待ってるって、なんだかとても素敵なことだよね。そうする相手がいてくれることも。嬉しくて、どきどきして、幸せなことだとメーシャは笑う。
 それに、砂漠は賑やかで寂しくないし、そうしようかな、と呟きながら決めてしまうメーシャに、俺も様子を見に行くよ、とルノンが囁く。アンタまさかロゼアについていかないでしょうね、と心底嫌な顔をして、妖精はシディから距離をとった。
『この間から挙動がおかしいんだから、花園でゆっくり日光浴に励みなさいよ』
「あっ、しってるです。えんきょりれんあい、というやつでは?」
『ソキしばらく口を閉じてなさい』
 違うのでボクが鉱石妖精から砂妖精とかいう変種になりかねない発言は謹んで頂けますかリボンさんなら削るくらいのことはします、と呻くシディに、妖精は勝ち気に鼻を鳴らして頷いてみせた。よく分かっているじゃないの、という仕草である。口に出さなかったのは、ええぇ、と不満そうにしたソキがぱくんと口を閉じたものの、思いっきり聞き耳を立てているのが明白であったからだし、目がきらんきらんに輝いていたからだった。
 めっ、目と目で通じ合っちゃてるですうううっ、と楽しくはしゃがれたので、もうなにをしようが加速する誤解を止めるのは難しいのだと痛感するはめになったのだが。長期休暇の前にどうにかしておきなさいよ、とソキに対するめんどくささを一方的に押し付けて、妖精はひらりと談話室の天井高くへ舞い上がった。四人と妖精たちがいるのは、談話室の窓辺に置かれた机とソファ。いつもの定位置である。
 あのあと、所用を済ませたナリアンがニーアを連れて合流し、メーシャの帰りを見計らって現れたルノンと、なぜかついてきたシディが現れ、あれよあれよと言う間に密度が増したのだった。まったく、狭いったらありゃしないわ、と腕組みをしながら、妖精は談話室を睥睨した。一言で表すなら、混沌としている。どうも、そろそろ年末の準備をしなければならないことに、気がついていなかったのはロゼアとソキだけではなかったらしい。
 春先から度重なる事件とその終結、一応は回復したものの、未だ落ち着かず解決しきらず、授業は再開しないまま今日に至る。それ故、どうも全員が日付という概念を飛ばして生活していたらしい。いやああぁあ、だの、嘘待ってやめて、だの、まって何ヶ月かと言わず半年くらいどこかに消えてる、だのと叫びが迸り、何人かが執念を感じさせるような素早さで日付の計算をし、暦とその予定が間違いなく過ぎていたことを確認して、また大騒ぎになったのだ。
 そもそも本当に帰宅が許されるのかどうかは、幾人が口にしていた通り怪しいものがある。帰ることは許されても、常にはなかったなんらかの制限がかけられる可能性が高い、というのが大半の予想だった。寮長は未だソキの呪いにより、昏睡と覚醒を繰り返している状態であるから、各国との情報伝達も滞りがちである。非常時の連絡手段はあるものの、それを使っていい要件とも考えにくく。
 かくして『学園』は明日の朝、寮長が目を覚ますまでは各々が混乱し続ける運命にあるのだった。騒いだってどうなることでもないんだから諦めなさいよ、と見回していると、すい、と高度を上げてきたシディが苦笑しながら囁いた。
『リボンさんは、ソキさんとロゼアと一緒に?』
『勘違いしないでちょうだいね、シディ。アタシと、ソキに、なんでかロゼアがくっついてくるのよ。ソキがそれがいいって言うから、仕方なく同行させてやってるの。間違えないでちょうだい』
 付いていくのは妖精ではなくて、ロゼアの方なのである。くすくす笑ったシディは、ではそのように、と頷いた。
『砂漠は未だ落ち着かないと聞きますが、ソキさんの契約妖精となったのですから、大丈夫でしょう。ですが、どうぞ体調の変化にはお気をつけて』
『アタシの心配より自分の心配しなさいよ……』
 また挙動不審に巻き込まれ、抱きしめられたりしてはたまらない、ので。妖精は嫌な顔を全面に出しながら、シディからじわじわと距離を取った。鉱石妖精は、ふ、と笑って。すいっ、と空を泳ぎ、妖精の顔を覗き込んで告げる。
『そんなに離れなくても』
『傍にいる理由がないでしょう。寄って来ないで』
『君に限ってそんなことはないと思っていますが、なぜか最近心配で……目が離せないというか、傍にいないといけないような気がしてしまって。だから、ね?』
 聞き分けてくださいね、と告げるシディに、妖精は頭の中でなにかが引き千切られる音を聞いた。興味津々にじーっと見守っていたソキが、ぴぴゃっ、と慌てた声を上げてロゼアの膝上でもちゃもちゃとする。
「り、りぼんちゃんが、そうとうのおいかり……! ソキにはわかちゃたです……! だだだだだめですうううもいじゃだめですううう!」
 えっ、と未だ新入生から先輩に更新がかからない魔術師のたまごたちの視線を受けながら、妖精は躊躇い無く、そんなものは一切なく、シディの首を狙って正面から上段蹴りを叩き込んだ。遠心力を使って踵から叩き込む。間一髪、手を差し入れて直撃こそ免れたシディが、な、とも言わぬ間に。花妖精の軽やかな機動性を存分に奮ってシディの背後を取ると、羽根の付け根を狙って肘を叩き込む。
 声もなく。まっすぐ落下していくシディを睨み、妖精はぜいぜいと、赤い顔で息を整えながら吐き捨てた。
『覚悟しろお前の本体を削って砂にしてやる……!』
『いや、さすがに鉱石妖精でも消滅するんじゃ……?』
『ルノンちゃん、しー、しー!』
 きゃあぁあんっ、と悲鳴をあげてあわあわと手を伸ばしたソキの元に、ぽとりとシディが落下した。ソキはあわあわはわわと慌てながらシディを膝の上にのせ、いたいの、いたーいの、とーんでいーくー、あっちにもこっちにもとーんでいーくーですぅー、でもソキのほうにはきてほしくないですぅー、ソキはいたいのきらーいですー、あっロゼアちゃんのとこもだめーですぅー、と自分に正直すぎるお見舞いの歌を歌い出した。
 突然のことにぎょっとして、険しい気配を纏い始めていた周囲の緊張が、またたく間に霧散する。そうだよね、痛いのやだもんね、ソキちゃんだってロゼアだっていやだもんね、俺すこしなら貰ってもいいよ、俺もすこしならいいよ、はうにゃんソキもちょっぴりだったらがまんするぅ、ソキ偉いなかわいいなシディもう痛くないだろ、ときゃらきゃら言葉を交わし合うソキたちを見下ろして、妖精はまったく、と頷いた。
『やっぱり本体に戻して、適当な箱とかにいれて窓辺にでも置いておかないといけないわね……改善しなかったら削る。よし、これで』
『せ、先輩っ! あの! 鉱石妖精を削れる硬度のものは、自然界にも中々存在しませんし、あのっ』
『できるできないじゃないのよ、ニーア。やるの』
 謎の説得力がある宣言に、ニーアがさめざめと顔を覆って打ち震える。
『シディちゃんが減っちゃう……。……減るとどうなるのかしら……?』
『時々思うんだけど、アンタとソキ、思考回路が似てない? なんでそっちの方向に興味関心を持つの?』
 しなくていい誤解を加速させたまま改善させない所も、ニーアとソキはとてもよく似ていた。ほんとうに、と妖精はしみじみと思う。ソキの案内妖精が、己でよかった。もしもニーアならそこらで迷子になって辿りつけなかったに違いない。あっちへこっちへ行きたがるソキの手綱を、ニーアが操り切れるとも思えなかった。
 そ、そうでしょうか、そんなことないですよ、似てないですよ、となぜか怯えた顔で訂正してくるニーアに、妖精はうろんな目を向けた。褒めてはいないが、似ているからと言ってどうという訳ではないのだ。妖精の魔術師はただひとり。ソキなのだから。
『……まぁ、いいわ。ニーアも、ナリアンにひっついてあっちこっち行くのもいいけど、魔術師と契約を成さない花妖精である以上、アタシより体調に気をつけて過ごしなさいよ? アタシのはただの換毛期なんだから。いい?』
 ニーアはもの言いたげな顔をしながらも、はいと頷いて溜息をついた。以前より数はすくなくなっているものの、まだ花弁が落ちていることに変わりはないのだった。はやく落ち着きますように、と全てに向けて呟くニーアに、妖精はもうすこしよ、と言い返した。己の状態に対してのようにも。『学園』の生徒たちの混乱のようにも。砂漠や、五ヵ国に対してのようにも、響く言葉だった。

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