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 先触れも供もなく。魔術師も騎士の姿もなく。つまりは護衛の一人もなく。来ちゃったっ、と満面の笑みで告げた星降の王に、砂漠の王はよし帰れ、と言い放った。虚ろな顔での即答だった。その傍らには、笑いすぎてむせて咳き込んで呼吸困難を起こした白魔法使いが、腹を両手で抱えたまま床に落ちている。最後の言葉は、ひいいいいやると思ってたけどほんとにやったひぎゃっ、である。
 砂漠の王は、優雅に優美に笑いながら白魔法使いに容赦ない蹴りを叩き込んだ筆頭に、心底諦めきった顔で、それでも言った。
「俺は会わないって言っておいた筈だろうがなんで通すんだよお前は……」
 フィオーレの心配は特にしていない。フィオーレだからである。自業自得白魔法使いが床で動かなくなろうがどうなろうが、別にいつものことだからである。砂漠の筆頭も特に足を痛めたりした素振りもなく、いつも通りの微笑みで囁いた。
「いえ、このままですと、ラティが連れ去られそうな勢いでしたので。報告連絡相談が必要だと判断しました。ラティの所属は砂漠ですから、俺としても部下が無断で連れ去られるのを傍観しているのは、ちょっと」
「そうなんだけどな、そうなんだけどな……。そうじゃねぇんだよ……!」
 また陛下ったらわがまま言って、とばかり困った微笑みで沈黙する筆頭に、砂漠の王は隠すことなく頭を抱えてみせた。そもそも国内に入れるんじゃない、という話である。ジェイドがそのあたりをしっかり理解して指示さえしていれば、こんなことになる前に事態を把握できていた筈なのだ。理解していて指示しなかった可能性もあるが。それについては胃が痛くなるので考えないことにした。
 砂漠の王がそれを知ったのは、ラティが目覚めた後である。魔術師たちが一様にはっとした顔をして胸を手で押さえたので、起きたのか、とは思ったのだが。まさか星降の王が乗り込んできてやらかしているとは、可能性としてはあったものの考えないようにしていたし、まさか、本当に、やられるとは思っていなかったのだ。思いたくなかった、とするのが最も正しいかも知れない。
 手遅れだとするくらい終わった後のことなので、今更、己の感情について正答を探すのは無駄でしかない。ないのだが、しかし。心の底から全力でため息をついて、砂漠の王はにこにこと、機嫌よく笑う己の筆頭に視線を向けた。はい、と用事を問うて声を響かせる男に、砂漠の王は無駄だと知りながら、星降の王をぴしりと指差し言い放つ。
「帰してこい。国に」
「いけませんよ、陛下。ラティが連れて行かれる、と言ったでしょう? なにかしら手を打って頂きませんと。陛下? ね?」
 困った微笑みで、しかし決して主張を譲らず、それでいてやんわりとした響きで囁いてくる男こそが、直接ではないものの星降の王を招き入れたのだと知っている。知っているのだが。知られていて、それを欠片たりとも反省したり申し訳なく思ったり、罪悪感を抱いていない表情で、お願いしますね、と言ってくるのが砂漠の筆頭、ジェイドという男である。顔が良い。許したくなってくる。顔が良いので。
 お前ほんと、困難、と一言に全てを詰め込んで呻く王に、ジェイドはその意味を理解しておきながら、さらりと交わす微笑みでたおやかに頷いてみせた。
「そうですね、難しいことではありますが。正式な形でもなく、ラティを失うとなると今後に影響しますから。……さ、頑張りましょうね。よろしくお願いします、我が王」
「あ、そうだ、シア。結婚決まったんだって? おめでとー」
 どいつもこいつも俺の話を聞きやしねぇ、と涙声で砂漠の王は呻く。特に星降の王は、心から祝ってきているからこそ質が悪かった。だから見逃せ、と暗に言っているのだ。無自覚にそう言っている訳ではないことを、砂漠の王は知っている。無邪気で天然で計算高くてしたたかで、諦めない。目の前にいるのはそういう類いの性格をした幼馴染である。大方、己の魔術師たちも同じやり口で黙らせてきたのだろう。
 星降の中でも特に常識を失わないでいるストルとツフィア、レディの三人が、未だ血相を変えてやって来ないあたり、すでに手は打ち終わっているに違いない。そこから動かないで待つように。おめでとう、とでも言ったに違いない。混じりけなく、真っ直ぐな祝福として。ストル、ツフィア、おめでとう。これでリトリアのことは希望の通りになると思うよ。レディも、長くありがとうな。
 もうすこしだけ頑張って、そしたら交代しような。それじゃあ俺も幸せになってくるからすこし出かけてくるな、待っててくれるよな、などと。言ったに違いない。気がついた時には、全て、あらゆる手が打ち終わっていて。抵抗も反論も不可能にされ、結果だけが読み上げられる。星降の王がそうしようとして、成した時、いつも使うえげつない手である。
 もうなにもできなくなってから、なにかがなされていたことを、知る。時に年単位、十数年にも及ぶ気の長い、執念深い手段である。しかしお前ほんと諦めてなかったんだな、とどん引きしながらも関心する砂漠の王に、星降の王は不思議そうに、ゆっくりと首を傾げて言った。
「シア。俺は、一度も、ラティをあげるとは言わなかっただろ? ……言ったろ? 必要な間だけ、俺のラティを貸してあげるって」
 もうラティがいなくても眠れるだろ、と告げる男は、不眠が解消されたことも安堵しているようだった。安堵の理由はひとつではなく。だからこそ跳ね除けきれない。全て、もう、手の内だ。額に手を押し当てながら、砂漠の王は絞り出すように言った。
「……分かった。式の日取りはラティと相談しろよ?」
「ほぎゃぁああああああぁあああぁああぁあっ! 諦めないでください陛下ーっ! 筆頭ー! フィオーレちょっと! 蹴られたくらいで死んでないではやく復活してくれるっ? あっすみません申し訳ありませんがすこしこちらを見ないでいただけますか陛下! あの! 近いので! 近いので!」
「ラティ、混乱するだろ? いいよ、俺のことは、陛下じゃなくて。イリスって呼んで? ……ね? ね?」
 ひぐっ、と呻いて、ラティが動かなくなった。哀れな魔術師の現在位置は、星降の王の腕の中である。寝間着のまま抱き上げられられているのだった。ラティが今まで静かにしていたのは、現実をそれと認識したがっていなかったからである。衝撃すぎる目覚めからの告白と展開に、頭がついていかなかったのだ。
 暴れて、星降の王に万が一、怪我をさせてしまってはいけない、という意思もあって、じっとせざるを得ない状態だったのである。呆れ諦め顔で机に肘をつく砂漠の王は知っている。星降の王は、そのラティの内心を織り込み済みで、逃さないように抱き上げている。諦めろラティ、お前に勝ち目はないが俺にもない、この場にいる誰にもない、と微笑む魔術師としての主君に、ラティはオロオロと狼狽しきった目を向けた。
「えええええっとすみません! ほんとすみませんが! ほんといまなにがどうしてどうなってこんなことにっ? え? えっ?」
「……うーん。そうだね。魔術の使い過ぎで、君は昏睡していました。直前までの記憶はあるかな?」
 普通に説明しだすお前の精神構造どうなってんだ、と戦慄する王の視線に微笑んで。ジェイドは頷いたラティに、よろしい、と教師めいた仕草で頷いた。
「君はずいぶんと長いこと寝たきりでした。今はもう、次の年明けを迎えています。……体調に変調は感じられないなら、それは正しく、王の守護だろう。よかったね、ラティ」
「あ、ありがとうございます、筆頭……? いえ、えっと、それで……あの……?」
「うん、それでね。君があまりに目を覚まさないから、起こしに来て頂けますかって俺がお願いしに行きました」
 やっぱりお前のせいじゃねぇかよおおおおおっ、という胃を痛めた王の嘆きが、砂漠の城に響いていく。よろよろと意識を取り戻した白魔法使いも、知ってた、という目で筆頭を見つめた。砂漠の国で、事後報告と言えばジェイドのことである。騒動の出処が分からないとすれば、だいたいなんにでも噛んでいるのが筆頭そのひとである。直接原因ではなくとも間接的な理由にはいる。それがジェイドというひとだ。
 一応聞くけどなんでそんなことしたんだ、と問う砂漠の王に、ジェイドはにっこりと笑って言い放った。
「星降の陛下が、ラティにご執心なのは本人以外誰もが知っていた所かと?」
「そうだな。でも俺が聞いたのはそういうことじゃねぇんだよ!」
「陛下、言葉遣いが悪いですよ」
 理由をお問い合わせということでしたら、それはラティを目覚めさせる最後の一手として、とジェイドは言った。いい加減に起きようね、と白魔法使いをつま先で突きながら。
「妖精たちの解呪は、確かに成功していた。ラティが囚われていたのは、確かにただの眠りに他ならず、だからこそ起こすことが出来なかった。揺り起こしても、声をかけてもまるでだめ。ただ眠っているだけで……その実、魔術師としての本能が、意識を眠りに落としていた。目を覚ますことはなかったでしょう。ただ起きれば、ラティの『器』は砕ける。そこに待つのは発狂か、死か……奇跡しかない」
「え。私、そんなことになってたんですか……」
「そんなことになってたんだよ。まさか……こうなるとは、思わなかったけどね」
 お前それはあまりに白々しくないか、と顔を引きつらせる砂漠の王に、そういう意味ではありませんよ、と筆頭は言った。訝しみ、胸に手を押しあてて沈黙するラティは、未だ星降の王に横抱きにされたまま、一向に地に足をつける気配がない。諦めたか、そういうものだとして一時認識の外に置いているのだろう。ラティは恥ずかしがる素振りもなく、沈黙して己の内側に集中していく。
 じわじわ、その眉間にしわが寄っていくのを、砂漠の王はろくなことではないなこれ、という確信を持って眺めていた。星降の王がラティが腕の中で静かにしていることに満足して、なにも口を挟まないでいることがすでに怪しい。言わないで、動かないでいるということは、つまり本人としては結果が出て終わっていることだからだ。つまりろくなことではないし、ろくなものでもない。胃痛薬をかけてもいい。
 お前なにをしたんだ、と視線を向けると、ジェイドはにっこりと笑った。
「この件に関しては、俺は、なにも」
「信憑性がないんだよ……!」
「またそんなこと仰って。いいですか? 陛下? 俺は今日は陛下のお傍に控えていたでしょう、朝から。ラティには近寄ってもいませんよ」
 そうだな、と言ってやれないのはジェイドの日頃の行いと、日頃の事後報告があってのことである。疑いの目を引っ込めないままでいる砂漠の王に、形容し難いラティの声が届く。
「ぁいぇ……?」
「いまなんつった?」
「あ……え……? え……? え、えぇ……? 陛下……? 陛下私あの……? あ、あの……?」
 ラティの語彙が、恐らくは混乱で完全にしんでいる。落ち着いてから話せよ、と哀れみすら感じさせる慈愛の笑みで囁かれ、ラティはいえぇえええぇっとおおおっ、と急激に涙ぐんで狼狽した。ぎょっとする砂漠の王に、魔術師はなにこれえええっ、と叫ぶ。
「えっ、なんっ、なななななななないんてすけど私いまなにが? 私になにが? なにがどうなって?」
「……ラティ。深呼吸、しろよ」
「えっ? 陛下、フィオーレ、筆頭……! わ、わたし、私、魔術師ですよねっ?」
 なに言ってんだお前、と心配する砂漠の王の傍らで、しかしジェイドは理解のある表情で苦笑した。シュニー、と甘い声が愛しい名を呼ぶ。すぐさまそれに答え、襟元からもぞぞぞぞずぼっ、とばかり出て来たましろいひかりに、ラティは見える、と胸を手で押さえて涙ぐんだ。ある特定時期を除いて妖精の見えない砂漠の王には、分からないし理解もできない動きで、安堵である。
 なにしてんだお前ら、と呆れながら説明を求められて、ラティはだって、と狼狽しながら言った。
「ない……ないんです、陛下! どこにも!」
「なにが」
「わ、私の……私の『水器』が、魔術師の、魔力の、『器』が……!」
 ない、のだと言って。青ざめた顔ではく、と口を動かしたきり声をなくしてしまったラティに、砂漠の王はそうか、と頷いた。慌てないのには理由がある。己の筆頭がにこにこしているからであり、そんな大事を星降の王が放置して置くわけがないからである。えっ、とはね起きたフィオーレも、その二点にすぐに気がついたのだろう。渋い顔をして、えええ、と呻いてから首を傾げる。
「そんなことさぁ……ある? ……え、どゆこと?」
「そういうこと。ラティの『器』はあったけど、今はない。……ないんだよ、ラティ」
 本当に、まさかこんな結末になるとは思ってもみなかった、と砂漠の筆頭は息を吐く。それとも貴方はここまで知って成したのですか、と苦笑混じりに問われた星降の王は、ないしょ、と言ってラティを抱き直した。改めて体勢と距離を意識したのだろう。ひっ、と色気のない声で硬直するラティに、星降の王はご機嫌この上ない笑顔で囁いた。
「大丈夫だよ、ラティ。心配することじゃないからな」
「ええええええしますけど……! あとあの陛下あのなんていうかあのあのなんですかこの体勢……!」
「え? お姫さま抱っこだよ? イリスって呼んで?」
 そういうことじゃ、ない、むり、とラティが意識を飛ばしかける。せっかく起きたのに気絶させないでくださいね、と苦笑しながら、砂漠の筆頭はその言葉を囁いた。そういえば言ってなかったね、と。
「おはよう、ラティ」
「お、おはようございます、筆頭……?」
「うん、そして……おはよう、魔法使い」
 星の、魔法使い。そう、囁かれて。ラティは、己の『器』のない意味を知った。魔術師の中でも、それを持たないもの。無尽蔵の水底に沈む者たちを、その奇跡、世界からの祝福を。ひとは、魔術師は。魔法使いと呼ぶ。ラティはそれを否定しきれなかった。魔術師としての本能が、『器』を失った状態が、それが事実だと告げたからである。しかし。しかしながら。ラティはありとあらゆることに眩暈を起こして、涙ぐみながら息を吸い込み、そして。
 そういうのむりなんですけどおおおおぉおおぉっ、と絶叫した。なにがではない。全てである。



 その、数日後の『お屋敷』にて。賓客を迎える為の部屋をひとつ借り、ロゼアとソキはやって来た客人、メーシャから一連の騒動の話を聞いていた。といっても、聞いていたのはロゼアと妖精たちだけである。ソキは真剣な顔をして、メーシャからお土産でもらったリンゴをもうぜんとかじっていた。一口かじってからずっとそうだった。気に入ったらしい。
 ふんすふんすと鼻を鳴らしてリンゴをかじり続けるソキに心底癒やされながら、ロゼアは純粋な疑問に瞬きをした。
「魔法使い、って……後天的になれるものなのか……?」
「ろぜあちゃ! メーシャくんのリンゴおいしいねぇ、おいしーねぇ!」
「そうだな、おいしいな」
 しゃくしゃくしゃくしゃくもきゅきゅきゅっ、と頬をまあるくしてリンゴを詰め込むソキは、相変わらず、あまり人の話を聞いていない。その頭上でソキにもロゼアにも頭を抱えながら、妖精は律儀に、そんなことがあってたまるか、と低く呻いた。魔法使いとは生まれ付きの体質である。分かりやすく言うならとびきり目が良いとか、足が早いとか、味覚が鋭いとか、そういった類の身体的な特徴に類似する。
 つまり、後天的になろうと思ってもなれるものではない。生まれ付きのものだからである。例外として存在できるものでもない。魔術師と魔法使いの決定的な違いがそれだ。魔術師は、魔法使いになれないのである。その理由が魔力をくみあげる『器』だ。『器』のあるものを魔術師と呼び、ない者を魔法使いと呼ぶ。単純にして絶対的な違い。失ったからと言って、魔術師は魔法使いにならないのは、目の前のソキを見れば分かることだ。
 失えば、ただ、魔術の発動ができない、あるいはひどく不安定な、不得意な魔術師となる。それだけのことだ。そうであるから、ラティはおかしい。そうしめくくった妖精に、言い方がなぁ、とメーシャにくっついてきたルノンが額に手を押し当てる。
『そうなんだけどさ……思いやりのある優しい言葉で説明して欲しかった……。メーシャが不安になるだろ?』
『例外だとでも思われたらことでしょう。言うなれば突然変異の中の突然変異よ、そんなことは。……というか、確かなの? アンタは確認したの?』
『したよ、した。はー? まさかー? なんだよそれー、と思って笑い話にするつもりで確認してきた。……残念ながら』
 妖精の目で確認しても、ラティは魔法使いであるのだという。ふむ、と腹ばいから起き上がって腕組みをし、妖精はソキの頭をぺちぺちと手で叩いてルノンに言った。
『一応、アンタがおかしくなった可能性があるから聞いておくけど、ソキのことはどう見えてるの?』
『俺はさぁ、リボンさんの物言いにも慣れてるし、その可能性をとりあえず全部潰してからっていう考え方も理解できるし好ましいとも思ってるからいいけどさぁ……』
『どうでもいいから早く答えなさいよ。ついでにシディ、アンタもよ!』
 ロゼアの頭の上にハンカチを乗せ、その上でリンゴを一欠片ご相伴に預かっていたシディは、しゃくしゃくもぐぐと熱心に頬を膨らませながら、やや聞き取りにくい声で特に変わりなく、と言った。
『ソキさんはもちろん、ソキさんのままですね。魔術師です。魔法使いではなく。……ロゼア、このリンゴ、おいしいですよ。さすがは星降からの献上品……!』
 星降魔術師一同からの、騒ぎに纏わる謝罪の品、とも言われている。王宮献上の特級品である。市井には出回ることがなく、『お屋敷』でも、まず滅多に手に入ることのない代物だ。ソキは一切れを食べ終わったあと、きらきらした目を果物皿に向けた。まだ何切れか残っている。妖精用にちいさく切られたものだった。きょろ、きょろ、と周囲を伺って、ソキはこっくりと頷いた。
「リボンちゃんは食べないのぉ? つまり? このリンゴはぁ、ソキのなのでは? きゃあぁあん!」
『食い意地! ……あぁもう、好きにしなさい。夕食が食べられなくなって、ロゼアに叱られてもいいならね?』
 満面の笑みで妖精用に取り分けていたリンゴに手を伸ばす、ソキの動きがぴたりと止まった。あ、う、う、にゃ、とロゼアと小皿をオロオロと見比べて、未練いっぱいにリンゴをじっと見つめる。
「……でも、リボンちゃん? あのリンゴはぁ、ソキに、食べてもらいたがっているような……? ソキにはそれが分かっちゃうようなです……ゆゆしきことでは……?」
「ソキ、メーシャのリンゴ、まだたくさんあるよ。明日のも明後日のもあるよ」
「きのせいでした!」
 明日も食べられるとあっては、それでいいのだろう。すぐさま、ぺかー、とした輝く笑みで言い放つソキを、ロゼアがうっとりとした笑みで抱き寄せる。ソキはいい子だな、可愛いな、可愛くてかわいいな、とでれでれ褒めるロゼアにうんざりとため息をついて、妖精はにこにこと笑っているメーシャを見た。王宮からの訪問者は、すっかり心労も癒えたらしい。
 よく眠ったあとの顔つきで、礼儀正しく椅子に座り、メーシャはロゼアとソキのことを見つめていた。その瞳に焦りはなく。その顔つきに、羨望はない。悲しみは目覚めに拭い去られ、不安は朝の光と共に溶け消えたのだ。よかったわね、となにはともあれ改めて告げる妖精に、メーシャはありがとうございました、と告げた。
 妖精たちの助力が、ある意味ではラティの状態を悪化させてしまったことについて、メーシャは特に思うこともないらしい。真っ直ぐに、素直に感謝を告げられるのに、妖精はだからこそ、謝罪や申し訳なさを飲み込んで、ただ静かに頷いた。メーシャはふわりと微笑んで、すこし言葉を探しながら口を開いた。
「ところで、あの、そのラティの……魔法使いの件について、よければもうすこし詳しく伺っても?」
『いいけど……本人はなんて言ってるの?』
「……ラティは、その……。『現実が受け止められないを通り越して何回考えても理解できないから、これもしかして夢じゃない? 結婚? 魔法使い? 誰が? 私が? なんで? あと実はこれやっぱり夢じゃない? 現実ってなに? 現実とは?』って……」
 そうだろうなぁ、という心底からの理解で、室内でソキ以外がしみじみと頷いた。どちらか片方だけでも、中々受け入れられはしないだろうし、理解するにも時間がかかるに違いない。一緒にいなくてよかったの、と控えめに問う妖精に、メーシャは苦笑いで頷いた。
「俺を巻き込むわけにはいかないから、私の為を思うなら安全な場所に居て、ってお願いされてしまって。……ソキとロゼアの様子も知りたかったし、甘えて、今日は遊びに来ちゃいました」
『ふぅん?』
「まあ、あとは、俺も俺の不注意でうっかり言質を取られないように、見知った顔を見て安心したかったというか……。落ち着いた環境で思考をまとめておきたいな、と思って……」
 だからロゼア、と申し訳ながる顔で、メーシャは親友に珍しい頼み事をした。
「今日だけでもいいから、何処か泊まる場所を紹介してくれないかな……。その、なんていうか……城の手が伸びてこなさそうなとこに……心当たりとか、あったら……」
『アンタなにに巻き込まれてるの?』
「俺が……俺が星降の陛下を、うっかり、お、から始まる五文字の言葉で呼んだら最後、ラティの選択肢がひとつ消えて戻らなくなるんです……!」
 ほら、メーシャも俺のことパパとかお父さんって呼んでくれてることだし。結婚しよ、と相手のワガママを宥める微笑みで雪崩込ませる星降の王の姿が、妖精たちにはクッキリと見えた。そういう性格の相手である。それを考えれば、今まで一度もメーシャがそれに応えないでいたことは、偶然の折り重なった最適解でしかなかった。というかその為に、機会あるたびに呼ばせたがっていたとしか思えない。
 妖精からもシディからも、ルノンからも真剣な目で頼む、とばかり見つめられて、ロゼアは真剣な顔で考え込んだ。
「泊まるのは、いいよ。二日でも、三日でも。ただ、場所が……俺の裁量だけだと即答できなくて、すこし時間を」
「うふん? メーシャくん、お泊りするのぉ? ソキがお兄さまに頼んであげるです!」
 恐らく、またつまみ食いならぬつまみ聞きをしていたソキは、しかし珍しく、場の誰にも救いの手となる言葉で胸を張った。
「ソキ、じつは知ってるんですけどぉ、お兄さまはぷんすかです。陛下にぎゃふんと言わせてやるですって張り切っていたです。だから、メーシャくんの隠れんぼも、協力してくれるに違いないです。ばっちりです!」
「……そうなの? ソキ」
「そうなんですよ、ロゼアちゃん! あのね、お兄さまね、これで俺も結婚だのなんだの言われるではないかーっ、なの。陛下が胃潰瘍になったりしますように、なの。いけないです! 胃潰瘍よりは、メーシャくんの隠れんぼでは?」
 ああ、とロゼアは察した微笑みで頷いた。
「それなら……。メーシャ、こちらの騒動に巻き込む形になって申し訳ないけど、宿泊場所も日数も、心配しなくていいよ。長期休暇の間は、好きにしてくれてかまわないと思う」
 砂漠の王が未婚であらせられるのに、俺が先に婚姻などおこがましい、というのが、レロクが縁談を断る時の口癖だった筈である。それが使えなくなったので、レロクは砂漠の民の中ではほぼほぼ唯一、王の結婚に文句を言っているのだった。側近たるラギはなにを考えているのか誰にも把握させないまま、常と変わらない微笑みで、今日も傍らに控えている筈である。
 あちらが落ち着けばこちらが混乱し、落ち着いたかと思えば嵐がやって来る。ここ数年、砂漠はずっとそんな騒がしさに見舞われていて、落ち着ききってしまうにはまだ日が必要そうだった。まあこんな類の騒動が発生するっていうことが、ある意味平和よね、と息を吐き。妖精はまたソキの頭に腹ばいに寝転びながら、肘をつき、手に顎を乗せてくつろいだ。
『ラティの件について、なにか話してあげたい気持ちはあるけれど……魔術師は魔法使いにならない、っていう大原則を繰り返すしかないわね。悪いけど』
「はい。……俺も、教本を読んだり、筆頭に教えて頂いたり、フィオーレさんに聞いたりは……したんですが」
 根幹が違うので、なれない、ものだからである。メーシャはそれを理解している。しかし、なった実例が目の前にいるので、混乱しているのだろう。どういうことなんでしょうか、と顔を曇らせるメーシャに、考えられる仮説があるとすれば、と遠回しで控えめな言葉で、ルノンが囁いた。
『元から魔法使いであった、ということくらいでしょうか。なんらかの理由で自覚せず、また、誰もの認識を欺いていた、ということならば……?』
『自覚もしてないのにどうやって欺くのよ』
『そうですよね……。でも、もしも、そうならば可能性だった、としか……。魔術師は魔法使いになれないし、そう装えませんが、魔法使いなら。……魔法使いなら、魔術師のふりをできるし、周囲も……己の認識をも、書き換え騙し切ることができてしまうのでは? 認識阻害については、リトリアさんという前例もありますし』
 予知魔術師ときたら心底にろくなことをしないな、という顔つきで妖精は頷いた。根拠のない仮説に思いつきの仮説を重ねるだなんていう不毛にすぎる会話を、続けていくのはある意味徒労に過ぎるのだが。思いつく可能性は、ある、のである。まあ、もしもそうだとして、と妖精はお腹がいっぱいになったらしく、眠たげにうとうとふにゃにゃとするソキの頭を、ぺちぺち叩きながら眉を寄せた。
『唯一、自信をもって断言してやれることがあるとすれば、それはラティに悪影響があることじゃないのよ。本人の精神面は置いといて』
「……えっと? そうなんですか?」
『だってそれについて、星降の陛下はなにも言ってないし、なにかしてる様子もないんでしょう? 大丈夫ってことよ。どんな魔術師でもわあわあ騒ぐあの方が、特別それに触れてないなら。なにもないってこと。……しかも、ラティのことなのに』
 メーシャは納得したような、しきれないような苦笑いで、そうですね、と言った。ロゼアにぽんぽん撫でられて寝かしつけられていたソキが、ふんにゃっ、と声をあげてそうでした、とメーシャを振り向く。嫌な予感しかしない。はやく寝かせなさいよ、はやく、とロゼアを睨む妖精に気がつかず、ソキは眠たさいっぱいの、しかしきらきらに輝く目でメーシャをじっと見つめた。
「メーシャくん! ソキ、そういえば、おききしよと、おもってた、ん、ですけどぉ!」
「うん、うん、ソキ。眠ってからにしような。メーシャは、しばらくお泊まりだからな」
「うんにゃ、ふにゃ、ふにゃ……う、うぅ……」
 不満げな鳴き声をあげるソキは、しかしロゼアの寝かしつけに逆らえないのだろう。むぅっとくちびるを尖らせてもぞもぞするも、つむんとしてるのどうしたの、つむっとしててかわいいな、と囁かれれば、すぐに蕩けた笑みでふにゃふにゃと照れて喜んだ。ちょろくて転がされやすいソキは、今日もその長所をのびのびと生かされている。
 すこし、して。こてんっ、と眠り込んでしまったソキに、メーシャはくすくすと楽しそうに笑った。
「なにが聞きたかったんだろうね、ソキ。ロゼアには分かる?」
「どうかな。メーシャ、夕食も一緒にどうかな。食べ終えるまでには宿の手配なんかも終わると思う……荷物持ってきたんだよな? ラティさんに連絡は?」
「行き先は聞かないから、落ち着いたら連絡してねって言われてる」
 そっか、と安心した顔でロゼアは頷いた。手紙は出所を分からせずに運べるから、などと言っているロゼアに、『お屋敷』ほんとそういううさんくさいとこ得意だな、と思いながら妖精は息を吐く。
『事情を知らなければただの逃亡よねこれ……』
「うん、でも砂漠の陛下にも大丈夫なように取り計らっておいてやるから、好きに潜伏しろって仰って頂けたから」
 ただし、申し訳ないが止めるのは無理、とのありがたいお言葉付きである。役に立たないわね、という顔で頷き、妖精はくぴ、くぴぴいっ、とリンゴの香りを漂わせながら眠るソキに、安堵と呆れ混じりのため息をついた。ソキの『 』は、今日も喪失したまま、お絵かきは進まず。『花嫁』は今日も、魔術師のままである。



 元気いっぱいお昼寝から目を覚ましたソキは、さっそくロゼアに、メーシャくんが来るんですよぉおお、と自慢げに報告をした。ロゼアはうん、と微笑んでソキを膝の上に抱き上げ、頬、首筋、額、と手を滑らせ体調を確認しながら、きゃっきゃとはしゃぐ『花嫁』に、こつりと額を重ね合わせて微笑んだ。
「来る、じゃないよ、ソキ。来てるよ」
「……ふんにゃ? あれ? ……あれぇ? そういえば、メーシャくんにお会いしたような……リンゴがとってもおいしかったような……りんご、りんごが……」
『……そういえば、朝からなんか寝ぼけてるような感じでふにゃふにゃしてたわね?』
 普段の三割増しにぽやぽやして、動きがとろくさく、話すことも要領を得ないものばかりだった、と妖精は思い返して溜息をついた。起きた瞬間からずっと寝ぼけていたに違いない。体調でも悪いのかと眉を寄せて探るも、妖精には安定した魔力の動きしか感じ取れない。体調は悪くない筈だ、と思う。忌々しい気持ちでロゼアを睨めば、『傍付き』はある程度予想していた微笑みで妖精の疑問に応えてみせた。
「そろそろ、月の障りの時期ですから。眠かったんだと思います。……ソキ、メーシャは客間でお泊りの準備しているよ。会いに行く? それと、ご当主様にもお礼を言いに行こうな。メーシャが泊まれるように許可と、手配をしてくださったから」
「うふん。分かったです。お兄さまったらぁ、たまには役に立つです。えらいえらいです!」
『はぁん? なに、結局ここに泊ることになった、ってこと?』
 ソキを眠らせたあと、ロゼアはメーシャと連れ立って、実にてきぱきとよく動いた。メーシャを連れてまずはラギの所に事情を説明しに行き、当主に面通しを行い、妖精には分からないいくつかの部門やら部署やらをぐるぐると練り歩き、挨拶だのなんだのをして行ったのである。そうこうしているうちに、宿泊許可だか滞在許可だかがおり、メーシャは『お屋敷』の客間を一室提供される運びになったのだった。
 ロゼアにしても予想外の許可だったらしい。ぎょっとした顔で簡易宿泊所だの、合宿所だの、宿舎だのとなんらかの名称をぽんぽんと口にして問うロゼアに、当主側近たるラギは、レロクを甘やかす微笑みでさらりと告げた。そのように、と当主の御命令であるもので。魔術師のたまごが珍しいから話を聞きたいのでしょう、とロゼアとソキという存在を前にすればなんの信憑性もない言葉を残して、ラギはそれでは、とさっさといなくなってしまった。
 ぜったいなにか企んでいる、と思ったのはロゼアだけではなかったらしい。ルノンが、俺がメーシャを守らなくては、と決意を新たにする中、ロゼアはとりあえず、ソキが起きそうだからと区画へ戻って来たのだった。そんな事情とも知らずにふあふあとあくびをするソキは、ロゼアの腕の中で気持ちよさそうに伸びをして、自由奔放にお兄さまのトコに行ってあげてもいいんでぇ、などと言っている。
 ソキをダシにして聞き出すつもりだな、と妖精はロゼアを白い目で見たが、まあたくらみは暴いておいた方がいいだろう、とそれを許してやった。なにせ、相手はソキの兄である。それだけでも、ろくなことを考えそうにない相手だと断じるには十分だった。それじゃあ、御当主様にご挨拶しに行って、メーシャにも会いに行こうな、と歩き出すロゼアに連れられて、ソキはご機嫌にはーい、と返事をした。
「ねえねえ、ロゼアちゃん? これで、陛下は、ぎゃふんとするです? お兄さまったらぁ、わる! わるなのでは?」
「そうだな、いけないな。……ソキ、他に、御当主様はなにか仰っていた?」
「んとね? ラギさんにバレないよにするんですけどね、それはお兄さま得意だから、大丈夫だって言ってたです。ソキもぉ、ロゼアちゃんに内緒、得意なんでぇ。お兄さまったらすぐソキの真似をするんですけどぉ」
 内緒、とは、という顔で妖精は首を横に振った。本人がそうだと思い込んでいるなら、今後もなにかと便利そうなので放置しておきたい一件である。ロゼアも同意見、あるいは、そこが可愛いと思っているのだろう。でれでれとした笑みでソキの頬を指で撫でながら、そうなんだな、と言っている。五分に一回ふあふあとあくびをしながら、ソキはレロクの元へ連れて行かれるたった十数分の間で、あれよあれよという間に情報を聞き出され。
 ロゼアはその全てを、速やかにラギへと受け渡した。もちろん、要点だけをまとめた上で。ソキいわく、お兄さまのとっておきの秘密、の数々を当主側近は八割がた把握していた微笑みで聞き、後でちゃんと叱っておきますからご心配なく、とロゼアに言った。妖精の目からしても、信憑性に欠ける物言いだった。本当によろしくお願いしますね、と胃が痛そうな声で呻き、ロゼアはソキを連れてレロクと面会をした。
 ソキが眠たげな声でふにゃふにゃ話すのをレロクは面白そうにしながら聞き、ロゼアの思惑通り、いくつかの情報を零して行った。曰く、メーシャを『お屋敷』に泊らせたのは気まぐれではない、とのことだ。そこに砂漠の筆頭の存在が見え隠れしたので、ロゼアはソキにバレないように、そっと胃のあたりを抑えて沈黙した。砂漠の王宮で最も許される筆頭は、『お屋敷』においても当主に気に入られているが故に、だいたいそんな扱いなのである。
 いいんですか、とロゼアが視線を向けた先、ラギは微笑んでそっと視線を逸らして沈黙した。排斥に動いていないのを見る分に、ラギには良くもないが悪くもない、という相手であるらしい。無害ではないが利益が大きい相手、ということだ。レロクがとてもよくなついていますし、とぼそりと零された声が全てである。そして、ウィッシュの父親でもあるひとである。妖精はしみじみと頷いた。質が悪い。
 無言になったロゼアに珍しく同情しながら、妖精はルノンと一緒に祝福を重ね掛けしてやった。
『安心なさい。アタシがいる限り、ソキにそうそう変なことはさせないし、あっちも今それ所じゃなくて忙しい筈だから』
「はい、ありがとうございます……」
 ソキのおみやげでくれたのでソキのですううう、『お屋敷』に運ばれたから俺のものでもあるだろうが、ときゃんきゃんとメーシャのリンゴを取り合って騒ぐ宝石たちに、ロゼアとラギが心底平和の尊さを噛みしめる顔で沈黙した。それから仕事が忙しいというので、ロゼアは礼儀正しく、ソキを連れて当主の部屋を退室した。ソキよりお仕事を優先するだなんてぇ、とぶんむくれる『花嫁』を宥めながら、メーシャのもとへ向かう。
 メーシャはこんないい部屋を使わせて頂いてもよかったのかな、とすこし困惑しながらロゼアたちを出迎え、ほっとしたように肩の力を抜いた。ルノンの姿がなかったので妖精が問えば、ラティに現状の報告に行ってくれたのだという。メーシャが無事にかくまわれたと聞けば、ラティも安心するだろう。まあ、しばらくソキの相手でもしていなさいよ、と妖精が告げれば、メーシャはくすくす、と笑って。
 よろしくね、ロゼア、と言って楽しそうに肩を震わせた。



 それはよかった、と告げるラティは、言葉ほど安堵した様子を見せなかった。ルノンは苦笑して、魔術師の向かっていた机の上に舞い降りる。見れば書類仕事をするでも日記を書くでもなく、ただ椅子に座っていただけだから、話し相手をしてくれる時間くらいはあるだろう。メーシャが日夜過ごしていた為にすっかり馴染みのある室内は、夕刻にさしかかったばかりであるのにいくつもの灯篭に火が入れられていた。
 そのどれからも、気持ちを落ち着かせる薬草の香りが漂って来る。ルノンは微笑んで、ラティに鎮静効果のある祝福を、強めにおくってやった。ありがとう、とラティは呻くように言った。目頭を手で押さえながら。
「いや別に……別にね……? 気分が落ち込んでる訳ではないのよ。うん、そう。落ち込んでるんじゃないの……苛々してる、とも違うのよ……。落ち着かないでいるのは確かだけど……」
『うん』
「な……なにが起こってるのかちょっとよく分からないだけで……。いや分かってるんだけど……分かってはいるんだけどね……? 理解ができ……できてるけど……出来てるか、出来てないかで言えば、出来るんだけど……えぁあぁああ……」
 こんなによく分からないことしか言わないラティは初めてみたな、としみじみ感心さえしながら、ルノンは根気よく、うん、うん、と頷いてやった。思えばメーシャを介して、付き合いの長い相手である。メーシャがなにもかもを失う前から面識があった、という感触のある相手である。親しい交流をしていた期間だけで言えば、メーシャよりも長い魔術師であるかも知れない。
 いつも明るく、はきはきとして、自分の意見をしっかりと口に出し、迷わず前へ進んでいく。そういう印象の深い女性が、こんな状態に陥るのは初めてではないだろうか。大丈夫か、と問うことも憚られてルノンが言葉に迷っていると、頭を抱えて机につっぷしたラティから、いやごめんちがうの、と意味のなさない謝罪のような、涙声の言葉が漂って来る。
「好きとか嫌いとか駄目とか駄目じゃないとかそういうことを言ってるんじゃないのよ分かるでしょう……? なにを言っているんですか私ですよ魔術師ですよけっ……けっこんとかそういう……そういうのする相手じゃないでしょう、なん……えぇ……」
『うん、うん。そうだな。そうだな……』
「しかも陛下の仰ってる約束ってそれアレでしょうアレ。あの私が入団二日目で城で道に迷って陛下に見つけて頂いた時からのうっかりというか、今覚えばなんでそんなこと言ったんだろう私っていうアレでしょうアレ。子供の口約束じゃないですか……。覚えてますよ、それは。覚えてます、私は。どんなことだって。あなたの。忘れる訳ないじゃないですか。忘れたり……。あぁあああああ嘘でしょう……だって今までそんなそぶり……あったかな……。あれもしかしてそうだったのかな……。あぁああえぇええええ待って。待ってください待って……」
 待って、としか言わなくなったラティをしばらく眺め、ルノンはそろそろと、その約束についてを聞いてみた。ラティが頭を抱えたまま早口でとつとつと語った所によると、確か十歳になったばかりの頃だという。城の中で道に迷った新任騎士見習いを、部屋から抜け出して脱走途中の、偶然通りがかった王子が見つけ出して助けてくれた。ラティは王子だと気が付かず。王子はすぐ、新任の騎士見習いだと理解して。
 王子はラティをそっと騎士たちの控室まで連れて行って別れ、その日はそれで終わり。それからたびたび、王子は身分を明かさないままで騎士見習いに会いに来た。騎士見習いは数回会う内に王子の正体に気が付いたが、口に出すことはせず。高貴な方の気まぐれ、気晴らしに付き合っては脱走につき合わされ、時に真昼の城下町を、時に深夜の城の中を駆け回った。
 想い合っている、と気が付くのに時間はかからなかった。言葉に出さずとも。互いの特別だった。それを口に出したのは、たったの二回だけだ、とラティは言う。見習いを終えて明日から正式な護衛騎士として務める、となった夜と。魔術師であることが発覚した、その日。たったの二回。恋を口にした。傍にいて欲しいと。一度目は王子から。二度目はラティから。
 一度目には、もちろんです、と応え。二度目には、口づけをした。魔術師は王のものである。五王のものである。所有物となる。そうであるから。魔術師としてのラティは、もう、そのひとのものにはなれない。誰かと恋をして結婚を許してもらうことは出来るかも知れない。けれど、王だけは。この世界の王とだけは。結ばれることはない。魔術師である以上は。ものとして傍にいることはできても。
「だって……だってそうでしょう……? あのひと、私を、俺の魔術師とか呼んでも、だってそうでしょう……? 魔術師だもの、王のものだもの。魔術師皆そうだもの。違うって分かるもの……。大事にしてくれるっていうのは分かるけど、でもそういう大事じゃなかったでしょう……? えっ待ってほんと、ほんとあの、待って……。私が分かってないんじゃなくて、これあのひとが分かってないんじゃないの実は……?」
『……ごめんなラティ。あの、一番重要なこと聞いていい……?』
「いいわよなに……」
 ずずっ、と鼻をすする音がする。しまわれていたハンカチを引っ張り出して渡しながら、ルノンはそっと、そーっと、気遣わしげな声で問いかけた。その、決定的な言葉までは分からなかったので。
『結局、結婚の約束っていうのは、ほんとにしたのか……?』
「……うん」
 いやでも結婚しようね、はい分かりましたとかじゃなくて、と早口の涙声が言い放つ。
「一生涯、なにもかも全部、俺にくれる? 俺のものになって、俺の騎士って言われて。はいって言った……。言ったけど……。でもほら私は魔術師になったから魔術師って騎士じゃないし、私の在籍だって砂漠じゃない? 星降じゃない時点で、ああやっぱりだめだったんだそうじゃなくなったんだなって思うじゃない……? 思うわよね……? その後もみんなとおんなじ魔術師対応だったし……よく考えると、あれ? って思うことが……いくつもある……いくつもあるけど……」
『う、うーん……。あの、ラティはさ……困ってるんだよな? 嫌なのか……?』
「……強いて言うなら、私は嫌じゃないことに今一番困ってるのよ」
 いやじゃなくて、だめじゃなくて、うれしくないわけじゃなくて。でも。はい、とはもう頷けない。魔術師だから。あぁあああ許して欲しいというかこれほんと夢じゃないの夢じゃないなら現実なの現実ってなにどういうことなの、と延々と呻くラティに、ルノンは困って息を吐いた。これは、薬草を数種類も香らせたくなる。無言で祝福を重ね掛けしたルノンに、ラティはごめんねぇ、と涙声で呻き。
 しかしその後も、混乱しきった状態から、回復することはなかった。

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