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 ソキの旅日記 マイナス




ソキの旅日記 −28日



 窓から差し込む風はまだ冷たく、けれども春の気配がした。瑞々しい、淡い光に震えながらも綻ぶ、ましろい花の香り。悪戯に喉を乾かせ軋ませていくつめたさだけではないそれに。ソキはぱちぱち瞬きをして、くんにゃりと首を傾げてみせた。
「ろぜあちゃん? おはなが……」
「うん? ……うん、おはなが?」
 お花が、どうしたの。やわらかく、あまく、そっと囁く声が耳のすぐ傍で問うたので、ソキはきゃあぁ、とくすぐったそうに笑ってその身に体をすり寄せた。膝の上に抱きあげていた腕が、ゆるくソキの体を支え直し、ぽんぽんと背を撫でてくる。
「ソキ、ソキ。お花? お花がどうしたの? ……そうだな。一輪、部屋に飾ろうか」
 確か、中庭にいくつか早咲きの花が綻んでいた筈だから。微笑みながら今すぐにでもそうしようと世話役の者に指示を出しかけるロゼアの腕を、ソキは慌ててくいくいくいと引っ張った。
「ちぁぅ……んにゃ! やぅ、うぅ……! ちぃ、が、う、で、すー、うー」
「ちがうの? ……ソキ、慌てないでいいよ。ゆっくりでいいよ。違ったな、ごめんな。……なぁに? 俺に、教えてくれる?」
「んー。んー、とー。んっとぉ……あの、ね? あのねぇ……」
 やわやわと頬を包んで撫で擦る両手の温かさにきゅうぅ、と嬉しげに鳴きながら、ソキはえーっとぉー、とゆっくりゆっくり口を動かした。数日間ずぅっと寝て、けふこふと咳をしていたせいで、喉もあごも、くちびるも、舌も、いつもよりとろとろとなんだか動かしにくい。
 それでも、熱はさがったし。体も、もうみしみししないし、痛くないし、喉も息を吸ってもびりびりしないので。えへん、ソキ丈夫でしょう、えらいでしょー、と自慢げに胸を張りながら、んっとぉー、と言葉を繋げていく。
「お花の、いいにおいが、した、ですよ。だからね、ソキは、お花が咲いたです? って、思ったです。ロゼアちゃんは、お花が咲いたです、って、言ったです。だからぁ、ソキは、ちゃぁんと正解。だったです。えへん!」
「うん。そうだな。ソキはお花咲いたのが分かったんだな。ソキはすごいな。偉いな、ソキ」
 頬をふにふにと撫で愛でていたてのひらが、するりと首筋に落とされる。とく、とく、刻む鼓動を確かめるようにしていたてのひらは、やがて額にも触れ、そのまま滑って耳を撫で、背をそっと抱き寄せてから離れて行く。
「……じゃあ、もうすこし元気になったら。中庭にお花を見に行こうな」
「えっ、えっ……ろ、ろぜあちゃ、ほんと? 本当です? ソキ、お花を見に行ってもいいです……?」
 冬から、春がめぐり。冷たい風が消えて、完全に世界が温かくなってしまうまで。春の終わりまで、初夏のほんのわずか前になるまで。ソキは部屋から出られないのが通年のことだった。春がそっと触れ出す、この時期に。例え部屋を出てすぐの場所にある中庭であっても、降りられたことなど殆どないのに。
 ロゼアは興奮するソキの背をぽんぽんと撫で、微笑みながら囁いた。
「いいよ。だっこで一緒に行こうな。もうすこしだけ、元気になったら」
「きゃあぁあ……! ソキ、はやく元気になるぅ……!」
 ふわり、どこかで。虹色のひかりの欠片のような。それはあるいは、砂漠の砂粒のような。砕けた宝石のきらめきのような、ひかりが。ふわり、浮かび上がって。あまい飴玉のように、ソキの舌先でほろりと、崩れて消えた気がして。ソキはくちびるを手で押さえ、ぱちぱちぱち、と瞬きをした。
 どうしてか、先程よりずっと体の調子がいい気がする。ほんのちょっとだけ、咳をしたがっていた喉が落ち着いていた。ん、と目をくしくしこすって、ソキはふわりとあくびをする。削られきった体力はそれでもソキを眠りに引き寄せ、ほどなくころんと、夢の中へと沈み込む。



 約束は果たされることなく。数日後、ソキは『旅行』に連れ出された。



*****



ソキの旅日記 −21日



 ぽかぽかした気持ちいい熱に包まれて、ソキはふあぁとあくびをした。横になったままくしくしと目をこすって、瞼を下ろしたままてのひらを伸ばす。
「ろー、ぜー、あー、ちゃぁー……ん? そきぃ、きょうはぁ、ゆぅっくり……」
 けれどもてのひらが、うん、と笑い囁く声と共にぬくもりにきゅっと包まれることはなく。ふかっとした冷えた布に触れたので、ソキはびっくりしてぱちっと瞼を持ち上げた。
「ろぜあちゃん……? えっ……え、あっ、あれ……?」
 体を起そうとした所へ馬車のごとんとした揺れが重なって、ソキの全身を包んでいたやわらかな外套が座面の下に滑り落ちる。あっ、やっ、と涙声でそれにひっしに手を伸ばして胸にかき抱き、ソキがふるふると震えながら馬車の中を見回す。
「あれ、あれ……。ソキ、そき、ロゼアちゃんといっしょに……いっしょに、よる、ねむってたです……」
 ことこと、ことこと、馬車が揺れている。はじめてのことではなかったから、混乱していても、なにをされたのかがすぐに分かった。眠っている間に馬車に乗せられて、『旅行』へ連れて行かれるのだ。なにもなければすぐ目覚めてしまうソキに、普段使いの外套を与えたのはロゼアに他ならない。
 それはまだぬくもりを宿しているような気がした。その後、『お屋敷』を出てからソキさまは丸一日お眠りだったのですよ、と白雪の国境のほど近くで告げられたあとも。やさしい熱が、守ってくれているような気がした。



 服と靴に紛れこませるように、アスルが箱にいれられていたのを見つけて。化粧品に隠して、ソキの好きな飴が置かれていたのも、途中の宿でちゃんと見つけて。ソキはアスルをぎゅぅっと抱いたまま、言葉にならない不安にくちびるを尖らせた。いつもなら、ちゃんと、こんな風にしなくても、アスルは連れていけるし飴だって、お茶だって、好きなのを持って行けるのに。
 ぽて、と寝台に横になって、ソキはぎゅぅうとアスルを抱いたまままるくなる。眠気はいつまで経っても訪れなかった。



*****



ソキの旅日記 −14日



 ひっ、と悲鳴をあげてソキをかたく抱き寄せたのはまだ年若い女だった。ソキの世話役のひとり、ウェスカと仲良しの女性。彼女よりはいくらか年上の。『花嫁』の『旅行』の間の世話をする。旅先にまでついて行く。ソキも何度か覚えのある。その女性の腕がソキを抱きしめている。かたくつよく。痛いくらいに。
「いけません! あなた……なんということを!」
 すぐにソキさまを離しなさいと共に来た者たちから咎められても、女性は焔のような視線のまま、室内を鋭く見回すばかりで腕をほどこうとしなかった。窓や、扉。外へ繋がるそれらを見比べながら、女性の腕がソキの体に毛布をまきつける。一緒に帰りましょう、ソキさま、と先日も優しくソキに囁いてくれたのはこのひとだった。
 その言葉をソキはずっと支えにしていたのに。痛いくらい抱きしめられた腕の中、じわりと滲んだ涙が瞬きで零れ落ちそうになる。
「あーゆぅ……アーユ、ソキ、帰れるですよね……?」
「いいえ、ソキさま」
 女性の手が周囲の言葉のなにもかもから、ソキの耳を覆ってしまうよりも早く。同行していた年嵩の女性が、苦しげな声であっても、それをはきとした響きで告げた。
「こちらが、ソキさまの花園。御当主さまも、そのように、とのことです」
「そんなの許されるわけありません! 満足な支度もなく、送り出すこともなく、こんな……こんなっ、場所に! こんなひとたちの所に!」
「言葉を慎みなさい! ソキさまの御前でなんということを……!」
 いいえ、と鋭く女性が切り返す。この屋敷の者に、候補でもない男に、ソキさまがなにをされていたかお前たちは知っている筈だ。憎悪すらしたたる断罪の声に、幾人もが視線を伏せ、幾人もが強く手を握り締めた。ソキはちいさく震えながら、女性にぎゅぅとしがみつく。
「アーユ、アーユ。やです。ソキ、やです。おいてかないで……? アーユだけです。怒ってくれたのアーユだけですよ。ソキはやです、って言ったのに。なんでかみぃんな聞こえないふりするぅ……!」
「……アーユ。決まってしまったんだ。御当主様が、それでいい、と……俺たちにできることは、あとは……一刻も、早く」
 砂漠まで駆けもどり、風よりも早く。『お屋敷』にソキさまが奪われたのだと訴えるだけ。そう告げる年若い男に、年嵩の者たちからは咎める視線が向けられたが、言葉の訂正はされなかった。女性の腕がソキを硬く抱き寄せる。守るように。
「どうか……どうかお待ちください、ソキさま。俺たちが必ず、明日にでも……絶対に、ロゼアに、それを、伝えてみせますから」
 ここから、砂漠の首都へ戻るのに。一日では不可能なことなど。ソキにだって分かるのに。いや、と訴えるソキに、青年と、やがてアーユすら、それを繰り返して懇願した。信じてください、ソキさま。必ず、明日には。必ずや。だからそれまで。待っていて、と囁かれたのが最後の言葉。
 扉が閉じられる。ソキひとりだけをそこに残して。



*****



ソキの旅日記 −7日



 すこし眠っていたらしかった。みしみしする体を起こしてアスルをぎゅぅと抱きしめ、ソキは馬車の中をきょろりと見回した。とろとろとろ、と進む馬車の中にはソキしかいない。窓の外は白い霧に覆われていてなんの景色も見えず、時間も分からなかった。けふん、と咳をして、ソキはアスルに顔を埋め、すりすりすりと額や頬をすりつけた。
「あするぅー……。アスルもさびしい? ソキもです……」
 つぶらな目を見つめあって、ねぇー、と首を傾げてから、ソキは改めてアスルをぎゅうぎゅうと抱きつぶした。けふ、けふん、と乾いた咳が漏れて行く。この馬車がどこへ行くかソキは知らない。とろとろとろ、進んでいた馬車が、かたん、と止まった。
「やぅ……」
 ぎゅうぅ、とアスルを抱いていやいやと首をふるソキの眼前で、前触れなく扉が開かれる。
「ソキ!」
「あ……! ろ、ろぜあちゃ、ろぜあちゃん……!」
「ソキ、ソキ。おいで。おかえり。頑張ったな。よく頑張ったな。偉いな。もういいよ。……もうどこへも行かなくて良いよ、ソキ。そき、そき。頑張ったな、えらいな。さ、おいで」
 アスルごとソキを座面から抱き上げた腕が、ぎゅぅっと力強く抱きしめてくる。きゃあぁあっ、とはしゃぎながらソキはロゼアの首筋に腕をまわした。ぺたりと体をくっつけて、すりすりすり、と甘えてひっつく。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん! ソキ、もう、りょこにいかなくていいです? ほんと? ほんと?」
「うん。本当。いいよ。ずぅっと俺といっしょにいていいんだよ」
「ほんとですっ? うれしい。ロゼアちゃん、ソキ、そき、すごくうれしいです……!」
 じわりと浮かび、零れ落ちて行く涙をロゼアの指先がやわらかく拭っていく。さ、部屋に戻ろうか。あまく囁く声に、ソキはこくん、と頷いて、そして。



 夢から、さめた。
「……あれ?」
 くしくしくし、と瞼をこすって、ソキはぱたぱたと腕を動かした。しかし冷えたシーツが指先に当たるだけで、そこにはなにもおかれていない。
「あ、あれ? あする、あするは……?」
 ぐずっとしゃくりあげながらもそもそ体を起こして、室内を見回した。白を基調に作られた清潔そうな、広々とした部屋には誰もいない。冷えた白雪の空気が喉を軋ませた。吸い込む風に慣れない薬草の匂いが混じっている。熱っぽい顔でふらふらと身を揺らし、ソキは寝台の上でんと、と眉を寄せる。
 ここは病院。白雪の。ロゼアちゃんはいない。アスルも、馬車にぽいってされて戻されちゃったから、もうない。いまのは夢で、ほんとじゃなくて、だから。
「……ソキ、おうちかえるぅ……! やだ、やだ。やですぅ! ソキもうおうちかえるうううっぅうっやああぁあああああきらいいぃきらぁいいいソキもうやんやんですやぁんやあぁあっ!」
 ぼて、もすっ、と寝台の上から掴んで投げられた枕や布団の一部が床に垂れさがる。けふけふ咳き込みながら泣いて暴れるソキの元に、ばたばたと慌ただしい足音がいくつも近づいてくるのが聞こえたけれど。そのうちひとつも、望んだものではなく。ソキは血の味のする咳を繰り返しながら、ソキはおうちかえる、と訴え続けた。

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