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 うわ珍しい、ラーヴェが口ごもった、と半分引いているような声でディタが呟く。ラーヴェはしみじみと、場にジェイドがいなかったことに感謝した。いたらいたで、誰になんの話題を振ってるんだと問答無用で腹に一撃でもいれて言い争いになっていただろうが、それはそれ。顔を狙わないのはラーヴェの慈悲深い行いである。ジェイドの顔は、彼の長所でもあるもので。混乱した思考で息を詰めるラーヴェを、ディタはしみじみと物珍しいこととして見つめていた。彼らの混乱に一切気を配らず。スピカはきゃぁっとはしゃいだ声をあげ、スケッチブックをずいっとラーヴェに押し出した。
「そうなの? どのこ? ねえねえ、どのこ? スピカにそっと教えて? いいでしょう? ねえね、ラーヴェ? おねがい、おねがい。ね? ね? ね?」
「……ディタ」
「いいよ。教えてあげて?」
 助けて欲しい、あるいは、勘弁して欲しい、と向けたラーヴェの言葉を、ディタは丁寧に受け取った上で明後日の方向に暴投した。俺の『花嫁』がそれを求めているのに、答えないだなんてことはないだろう、という『傍付き』からの圧に、ラーヴェは意味が分からないと天井を仰ぐ。ラーヴェの『花嫁』はミードである。今も。これからもずっと永遠に、ミード以外にはなりえない。その上での、『老後の楽しみ』とした存在は、『花嫁』にしてみれば不愉快で、不安でしかないものだろうに。なぜならそれは証明だからだ。『傍付き』は、己の『花嫁』以外を大事にできる。大切にすることがある。その事実の、証明に他ならないからだ。ラーヴェはそのことを、悪いとは思ってはいない。それはある意味での『傍付き』の習性であり、息抜きであり、均衡を保つ行為ですらある。しかし、それでも、その上で。
 恋しい訳ではない。その感情はとうに、一人の為に葬り去った。愛しい訳ではない。その感情は、『花嫁』がこの腕の中で最後のひと呼吸をした時に、共に息を止めた。感情はすべて捧げつくした。その面影で、レロクとソキを大切だと思う。幸福だと思う。しかし、それでも、その上で。その上で、かわいいと、思う。たったそれだけの、『花嫁』からすれば絶望的な事実を。スピカはきらきらした、期待しきった目で、説明されたがっているのだ。スピカは今でも、ラーヴェの『花嫁』がミードだと理解している。その途方もないいとしさを。未だ失われたままでいる、その空白を。知って、理解していて。それなのに、なぜ、あえてそちらを知りたがるのか。ディタもなぜ、止めてくれないのか。
 言葉に詰まって、理解が出来なくて。苦しく、口を閉ざしたラーヴェに、スピカはそこそこのんきな仕草で、うーん、と言いながらくてりと首を横にした。
「ラーヴェ? わたしは、怒っているんじゃないのよ? 叱ってるのでも、ないの。教えて欲しいな、をしているだけなの」
「……な、ぜ、でしょうか……?」
 だって、それは、と。言い訳がましく、零れて行きそうになる声を。ラーヴェは己の意思で封じこめた。そんなことを言いたい訳ではない。どんな感情も。それがどんな気持ちや、感情であったとしても。告げたい訳ではない。スピカはうぅんと困った声をあげて、かたくななラーヴェをやわらかに見つめた。ラーヴェが思っている、どんなこととも違うのよ、と『花嫁』の声が淡く囁く。
「ミードじゃない、どんなこを、ラーヴェは大事にするのかなって……?」
「へぶふっ」
「ディタ。なに笑ってんだディタ」
 思わず本気で殺意を覚えかけたラーヴェに、ディタは口を手で押さえた上で、ひとしきり痙攣めいた体の震えで笑いをなんとか封じ込ませた。ごめん、いやほんとごめん、むり、とまったく謝っていない発言を響かせながら、ディタは大丈夫だよ、と宥めるようにラーヴェの肩を手で叩く。
「浮気を疑われてる訳でも、責められてる訳でもないから。ね、スピカ?」
「そうよ? ……あっ、ラーヴェ、もしかして、心変わりを怒られてると思ったの? 違うのよ? だって、ラーヴェが好きなのはミードでしょう? いまもで、ずっと、そうでしょう? そうじゃないの。そうじゃなくって……うんと……うんと、えっと……えっと、あのね?」
 はい、と辛抱強く、『傍付き』の習いとしてスピカの言葉を遮らず、ラーヴェはまだ笑っているディタの足を踏みにじりながら続きを待った。スピカはしばらく、ううぅん、ううん、と難しく眉を寄せて唸りながら、そうじゃないのよ、ラーヴェはかんちがいをしているの、とくちびるを尖らせる。
「そうじゃなくて……そうじゃなくてね、ミードがいなくなって……ミードが、いなくても……ラーヴェが誰かを大事に、して……大切に、して、そのこが……そのこのことがね、好きならね。好きっていう気持ちが……えっと、えっと、ミードに向けてたのとは違っても、あの、好きっていう……好きならね? それって、あの、もしかして」
 夢を見るように。希望を花開かせるように。きらきら輝く目で、スピカはラーヴェのことを見つめていた。
「もしかして、ラーヴェは……あ、ディタもね、ジェイドも、ロゼアも、なんだけど。あの、あの、みんな、みんなね? もしかして、もしかして……!」
「……はい? もしかして?」
「あの、あの、ほんとうに……ディタは、わたしのこと、好きなのかしらって。『花嫁』じゃなくて、あの、わたしの『傍付き』で、わたしが、ディタの『花嫁』だからじゃなくて。そうじゃなくて。あの、そういうのも、あるんだけど。それだけじゃなくて。そうじゃなくて、あの……わ、わたしが、そうじゃなくて、ディタを好きになったみたいに。ジェイドも、ラーヴェも、もしかしたら、そうなんじゃないのかしらって……思って……。思ったの……」
 それは、恐らく。『お屋敷』で育つ通常の『花嫁』では辿りつけない視点で、意思で、結論だった。『花嫁』は『傍付き』から向けられる好意を疑わない。好きでいてくれるということを知っている。けれど、スピカの告げる言葉は、そうではなく。それだけではなく。それを単純な、たったひとつの事実として、突き付けて問うているのだった。ねえ、とふわふわの、蜂蜜めいたいとしい響きが、鮮やかに耳の奥で蘇る。くすくすと幸福に笑いながら。幾度も幾度も、ラーヴェに問いかけた、囁いた、その声が。生まれや立場や、身分や関係があって。いままで生きてきたそれらがあって、その上で。それでも、それとは関係なく。たったひとりの個として。
『ラーヴェが好き』
 例え『花嫁』でなくても、『傍付き』でなくても、なんて。無意味な過程を問いかけたことはない。『花嫁』であったから、『傍付き』になったから、出会った末に傍にいられた。その腕に抱くことができた。だから、けれど、そうであっても。『花嫁』だから愛した訳ではない。たったひとり、いとしく思ったからこそ。他の誰でもなく、そのひとを『花嫁』にしたかった。それが全てだ。そのことを、スピカは聞いているのだった。まるで普通の恋のように。出会って、過ごして、だから。好きになってくれたのでしょう、と。好き、というその気持ちは。ごく普通にありふれた、どこにでもある、恋として。ただただ、好きになってくれた。そうなのでしょう、と。はい、と零れ落すようにラーヴェは微笑んだ。はい、もちろん、と告げる。
「そういう風に……その、気持ちで、みな、『傍付き』は、『花嫁』のことを……」
 いとしく、思うのですよ、と。『お屋敷』にいたなら決して、告げることさえないであろう、その言葉を。ラーヴェは囁いた。頬を薔薇色に染めて、スピカはやっぱり、と幸せな声ではにかんだ。
「好き、なのね。ほんとのほんとに、好きなのね……。うれしい……!」
「……スピカさま」
「ありがとう、ラーヴェ。教えてくれてありがとう! ディタ! ……ディタ、ディタ、すき! だいすき! 大好き、大好きよ!」
 ずっとずっと、同じ好きだったのね。ほんとのほんとにそうなのね。うれしい、うれしい、ありがとう、うれしい、しあわせ、と。抱き上げられた腕の中で幸福に笑う『花嫁』に、そっと胸を撫でおろして。ラーヴェは静かに、こそばゆく息を吐き出した。確かめる術はなく、機会はもう失われた。過去に希望を見出すのは得意ではない。それでも、ミードも確かに、そうであったと。同じ、だと。信じて、伝わっていたと思いたかった。それでも。言葉で知るすべは失われている。すこし、羨ましいな、と思って。声には出さず。ラーヴェはすこし目を伏せて、静かに、そっと、苦笑した。



 運命とはどうしようもなく巡り合い、そして叩き落とされるものである。そこに意思など関係ない。そのことをよくよく知っているからこそ抵抗せず、コルは野菜市の隅にしゃがみこみ、かれこれ二時間、かぼちゃを吟味していた。一時間半が経過したあたりで、店主がいつものアレか、という顔をしてコルの店に知らせを走らせてくれたので、もうすこしすればディタが爆笑しながら迎えにくるだろう。いつもの流れである。そうであるからこそコルは立ち上がらず、様々な考えを巡らせながら、目の前に山と積まれた新鮮なかぼちゃを見つめていた。この中からひとつだけを選べ、と告げられたのなら、コルはもうとっくに決めている顔をして、ひとつだけを手に取って立ち上がっただろう。
しかし幸か不幸か残念ながら、本日、コルの懐は豊かである。ひとつに決めてしまう必要はなかった。なににしよう、と考えを巡らせる。食べ物に加工するか飾りつけを増やすか。そもそも飾りを増やしに仕入れに来たのだから、それに細工するのは決定していることとはいえ。どう作ろうか、なにを作ろうか。抗えぬ音楽のように頭の中を流れ続けていくアイディアに翻弄され、酔いしれながら、コルはぼんやりとあることを思い出していた。
 スピカ曰く、コルくんのぴしゃぁああんっ、が決まった時はいつも思い出すことだった。りんごで思い出した時も桃で思い出した時も、万年筆やインクで思い出した時も、刺繍糸で思い出した時も口の中に食べられなくはないが飲み込みたくないものを突っ込まれたのと同じ表情をして、そう、と天を仰がれたので、きっと今回も同じ反応をされるだろう。ディタに。親友で共犯者である、彼に。ふ、とコルは機嫌よく、あどけなく口に笑みを浮かべてみせた。思い出すのはいつだって、その運命を目の当たりにした日のことだった。
 それはコルにしてみても運命だったが、恐らくはディタとスピカにしても、同じことだっただろう。三人はある日、『お屋敷』の一部屋で顔を合わせた。なりたての『花嫁』と、選ばれたての『傍付き』と、前代から跡を継いだばかりの『商人』としてのことだった。それが三人の初対面で、そして、そのうち二人にしてみれば、ただ再会だった。
 コルには終生抱えて、その死と共に砂漠に埋めると決意している秘密が、ふたつある。ひとつ、魔法が使えること。ひとつ、ディタと生き別れた幼馴染であること。幼馴染。ごく正確に表すのなら、同い年の兄弟か双子か、それくらいのものになるのかも知れないが、今現在のふたりを並べてそこに血縁関係があると思う者はないだろうし、ごく幼い頃からもそれは同じことだった。あるいは再婚同士の連れ子だったのかも知れない。ふたりとも、そのあたりは覚えていなかった。ただ、物心つく頃には一緒にいて、そして引き離されて、再会した。
 そう、引き離されたのだった。ディタはごくごく幼い頃から見目麗しかったし、コルは隣に並べば特筆すべき所のない、平凡な顔立ちをしたこどもだった。そうであるからこそ、貧困や事故や、砂漠の辺境にありがちな不幸が折り重なった時、つまり二人の元から両親が死という形でいなくなった時、周囲はごく当たり前のこととしてディタを『お屋敷』に渡し、コルを跡取りのない商家に引き渡した。
 砂漠で、うつくしく産まれた子は『お屋敷』に預けられる。そこで様々な働き手となる為だ。親があろうと孤児であろうと、関係なく。『開放日』と呼ばれる特定の時期に『お屋敷』に引き渡し、その選別を通り抜ければ、そのこどもは一生生きていける。『花嫁』『花婿』や『傍付き』になる大望は抱かずとも、『お屋敷』には様々な職がある。迎え入れられれば、なにかにはなれる。ただし、狭き門であり、なにより外見で選別されるのが常であった。そうであるから、ディタはそこへ送り込まれ。コルは別の場所に向かわされた。それはふたりを確実に生かす為の区別であり、貧しいオアシスの知恵であり、そして慈悲とも呼べる行いではあったのだろう。
 なにもできない幼子ふたり、なにもしなければ死んでしまうと分かっていて。なにもできないと分かっている貧しさが漂う場所に、置いておけなどしないのだから。かくしてコルは引き取られ、すくなくとも家の者には出自を差別されることなく育てられてのぼりつめた。そう、のぼりつめたのだ。砂漠の首都でも、『お屋敷』に出入りできる商人など一握りである。先代が縁あったからとて、そうそう叶う話ではないのだった。
 コルには商人としての才能があった。相手の望むものを、する、と目の前に出すことができる。相手が、なにを求めているのかを敏感に察知し、提案する。そういう類の才能だった。駆け引きや計算能力は、死に物狂いで習得した。ただ、その、望みを察知する能力、勘については、天性のものだった。そうであるからこそ、コルは『お屋敷』に引き渡されず、商家を選んでディタと引き離されたのだ。ディタがどこへ行ったかは知っていたから、コルは散々努力した。生きていることを知りたかった。一目でいい。叶わないなら噂話だけでいい。消息を知りたかった。その為の努力だった。
 そして、念願かなって『お屋敷』に立ち入りを許され、商いの話を許されたその日に。出会ったのがスピカだった。再会したのは、ディタだった。ディタは一瞬だけ、くしゃくしゃの、泣きそうな顔をして、声には出さずコルの名を呼んだ。不安げな、確かめるような響きだった。それに、コルはただ、名を呼び返すことで応えた。それが、コルの持つ『魔法』だった。
 ごく近距離にディタが存在する場合。二人の間に声は必要ない。視線を交わすでもなく、口唇の動きを読み合うでもなく、言葉が交わせる。頭の中に直接、声、意思が響くのだ。いつから、なぜ、そんなことができたのかはコルには分からない。ただ、夜遅くまでこしょこしょと潜めた声で話していて、怒られたから、言葉が響かないように交わせればいいのに、と思って。成した。そういう類の『魔法』だった。近距離でないと分からないから、生きているのかさえ、互いに分からないままだった。その日の商談はたどたどしくも決まり、コルは週に一度、『お屋敷』に通って『花嫁』とディタに商いをすることを許された。
 週に一度、ずっと。会うたびに、離れて途切れてしまうまで、ずっと、ディタとコルは話続けていた。二人の内心は隠しようもなく繋がっていたから、コルはすぐにディタが『花嫁』を想っていることに気が付いたし、ディタもコルには素直に内心を明け渡した。離れたくない。一緒にいたい。ずっと。離別は一度で十分だった。二度も、耐えられることではないのだと。
 そうして、二人が『花嫁』を連れて逃げ出す計画を立てはじめたのは、ごく自然で、仕方のないことだった。二人の会話は悟られることがない。周囲にどれだけの監視があろうと。言葉で商談をしながら、内心で計画を練り上げる。特別な合図も、仕草も、密書も、ふたりには必要がなかった。ただ同じ部屋にいればそれで、全てが事足りた。だからこそ、前代未聞の脱走は成ったのだ。無事に成し遂げられたのは恐らく、ジェイドの助けがあってこそ、ではあるのだが。そうでなくとも、失敗してしまったとしても、コルはふたりの脱走を助けただろう。だって、それが『運命』だったのだ。目が離せなかった。きれいだった。ふたりで、そこに、いて欲しいと思った。ただそれだけ。
 ただそれだけの運命の為に、コルはふたりごと、『お屋敷』からかどわかす大犯罪に手を染めて、星降の国に移住した。選んで星降に流れた訳ではない。どこの国に定住する、ということまでは決められなかった。ただ国境を超えることが第一優先で、そればかりで、そこから先のことは考えられなかった。そこから先を考えるのは、あまりにも途方もない、夢のようで。
 逃げ出して、一時でもいい、望みを叶えて。それだけで。終わってしまっても悔いはない。きっと、そういう夢だったのだ。その夢を、今にまで繋いだのは。
「あ、コルだ」
 その時と、全く同じ。なにも気負わない声で。背後から、ひょい、と顔を覗き込んで来た者の名を、まぶしく、コルは笑いながら呼び返した。
「ジェイド。……こんばんは」
「うん。こんばんは。……どうしたの? かぼちゃ好き?」
「いま運命が来てる」
 そっか、と笑いながら、でもとりあえず立ちなよ、とジェイドはコルに手を差し出した。あの日。『お屋敷』の、いくつもある出入り口の近くで、コルと、その背に隠れるようにして立っていたディタとスピカに、声をかけて。一瞬で、なにもかもを理解して青ざめた顔で。それでも、『お屋敷』の内部に声をあげて走り出すでもなく、そうすることを責めるでもなく。おいで、と言って差し出された手を、思い出した。
 コルが手を取った瞬間、ジェイドは放たれた矢のように走り出した。『お屋敷』の誰もがジェイドにひととき目を向けたが、すぐに興味がないという風に逸らされて行くのが記憶にこびりついている。その興味のなさこそが魔法のようだった。走って帰るのはいつものことだから、とコルの手を離さず、それでいてディタがスピカを抱いてついてくるのを振り返って確認もせず、けれども疑ってなどいない声でジェイドは告げた。いつものこと。ちょっと人数が多いだけ。でも目立たない恰好していてくれたから。だから大丈夫。ついてきて。己にも言い聞かせるように、そう告げて。その時になにを考えていたのか。
 反抗期だよ、といつだったか笑って告げた。その内心を、本心を、未だ告げることはなく。導いて、走って、ジェイドは誰も止める間もなく、誰に見咎められることもなく、砂漠の城を突っ切ってその最奥まで突入し、星降へ繋がる『扉』に、コルとディタとスピカをまとめて突っ込んだのだ。ジェイドは最初から、正攻法など使わなかった。砂漠の国を横断して国境を目指すなど、考えもせず。そうして、『お屋敷』を見事欺いた。
 本来なら、魔術師のみが使用できる移動方法である。『扉』とは不安定なものであり、また使用には許可がいるものだからだ。常時ではないものの、門番のように魔術師が傍に控えていることもある。砂漠でも、出口となった星降でも、誰かと行き会えばすぐに騒ぎになっただろう。しかし、廊下で行き会う者はあっても、そこを守る者とは顔を合わせることがなく。走って、走って、星降の城を抜け、こっちに行って、と城下へ続く道を指さして、三人とジェイドは別れたのだった。ごめん、忙しいからすぐには様子を見に行ってあげられない、というのが別れの時の言葉だった。
 ディタは『傍付き』として十分にその理由を知っていたから、十分だ、ありがとう、と言って別れ。走り去っていくその背に、咎めがないように、と祈った。三人は見知らぬ地をそう長くさ迷い歩くことなく、宿を取り、食事もそこそこに入り込んだ鍵のかかる部屋で、それぞれが茫然として座り込んだ。数時間前はまだ『お屋敷』にいた。それなのにもう、砂漠の国の外にいる。街は静かで穏やかだった。コルや、スピカや、ディタを探す追っ手の気配を感じることはなかった。
 どうしよう、と三人が共に思ったことはそれだった。なにが起こったのか分からないくらい、あっさりと望みが叶ってしまった。こんなに簡単に逃げ延びられるだなんて、思ったことはなかった。この先のことは考えたこともなくて、だから、なにをしたらいいのかも分からなかった。じわじわと込みあげてくる不安はあった。『お屋敷』から走り出ていく、一人ではなかったジェイドの姿を、記憶に留める者はあるだろう。『お屋敷』にも、砂漠や星降の国にも、目撃者は当然いるだろう。誰にも会わなかっただけで、見つめる視線はあったことだろう。『扉』がどういう仕組みで動いているのかは分からないが、通行記録が残るのだとしたら、そこから辿られれば終わりだった。
 それより、明日の食事はどうしよう。明日からなにをして。仕事はどうすれば。しばらく宿に留まるだけの金銭は持ち出してきたが、この先一生稼がないで生きていける程でもない。そもそもジェイドはどうして助けてくれたのか。そこまでの親しさを感じる相手ではなかった筈だ。排斥はしなかったが、それだけで。襲い掛かる不安と混乱を宥めたのはスピカだった。『花嫁』はとびきり機嫌を悪くした顔で、スピカはもうねむたいの、と主張して、二人に向かって子守歌を歌った。だいじょうぶよ、とあまく笑って。スピカと一緒に眠りましょうね、と囁いた。寝かしつけが得意な『花嫁』の手にかかり、二人はあっさりと、翌日の昼過ぎまで眠り込んだ。跳ね起きたコルはくぴくぴすぴぴとあいらしく眠る『花嫁』の無事を確かめ、ディタの無事を確かめて胸を撫でおろした。
 見覚えのない紙片が寝台の上に落ちているのを発見したのは、すぐである。すわ『お屋敷』の追っ手か、と思いきや、差出人はジェイドだった。二つ折りの紙には走り書きで、なんとかしたけど念の為しばらく大人しくしていて欲しい、とそれだけが書かれていた。紙は通常の郵便とは異なる手段で届けられたのだと、理解するのに時間はかからなかった。紙は一方通行で毎日届けられた。紙はきれいな便箋であったり帳面の切れ端であったりと、その時々によったが、いつもそれは突然部屋に現れぽとりと落とされて、ジェイドの姿が現れることはなかった。
 妖精だよ、と手紙はある時答えを告げた。魔術師の手紙を運ぶ仕事をしてくれている妖精が、それを持って行ってくれるのだと。だから紙が運ばれている間は魔術師以外には見えないし、友達だから検閲も通ってない。前者はともかく後者の言葉に、ディタはコイツそういう所ある、と天を仰いで思わず呻いた。なんというか、抜け穴を見つけるのが上手い相手なのだと。それは露見した時に本当に大丈夫なのかとコルは思い切り心配になったが、バレなければないのと一緒だし、と微笑むような相手である。心配するにもコルたちから手紙を出すことはできず、伝える術もながく、ないままだった。どうにか伝えられないかなぁ、と最初に言い出したのはスピカだった。
 スピカは手紙が現れる場所と時刻に法則性を見つけ出してからというものの、姿が見えぬ配達人に、見えないまでもありがとうねありがとうね、お礼をしたいの、あっでも見えないしなにか言ってくれていても分からない、としょんぼりしていたから、ディタがその憂いを取り払いたいと思うのは当然のことだったし、やることがないコルが協力したいと思うのもすぐだった。
 出歩けないディタの代わり、コルは街の図書館を訪れ、妖精に関係する本を何冊か借りてきた。砂漠の身分証はほんの僅か珍しがられたが、コルが商人であるとするとすぐに納得された。商人の訪れは珍しいことではない。そのまま定住することも。もし腰を落ち着かせる土地を探していて、ここが気に入ってくれたのなら嬉しいのだけれど、と星降の者たちは歓迎を口にして、事情ありだと分かる三人のことを、深くは詮索しないでいてくれた。魔術師のたまごを有する、『学園』に繋がる『門』から最も近いその地域は、多かれ少なかれ様々な事情を持つ者たちが多いのだと、知ったのはずっと後のことだった。
 かくして穏やかに隠されて守られた三人の暮らしは、情報を得るに困ることもなく過ぎて行った。コルの持ち帰って来た本により、コップに新鮮なミルクと角砂糖を用意したスピカが、無事に妖精との交流に成功したからだった。姿は見えず、声は聞こえず。けれど面倒見のいい妖精が万年筆を持ち上げて、紙にするすると文字を書いてくれたおかげだった。言葉は単語が殆どで、やりとりはそっけなく、十分だった。
 ありがとうね、どういたしまして、ジェイドに手紙を運んで欲しいの、だめ、どうして、手紙なんて大物はさすがに誤魔化せない、だからいつも便箋一枚か紙切れなの、そう、メモなら運んでくれる、いいよ、ありがとう、どういたしまして、ありがとうね、こちらこそ。こちらこそありがとう、妖精を知ろうとし、歓迎する古い作法を蘇らせた可愛らしい隣人さん。素直に喜ぶスピカのことを、妖精はいたく気に入ってくれたらしかった。熱を出してこほこほと咳き込めば、部屋にない筈の薬草の匂いが静かに漂っては長引く筈の不調を瞬く間に鎮めてくれた。住む家を紹介されたのは、その頃だった。
 宿の主人か、図書館の主か、そのあたりからの紹介であったのだと記憶している。妖精と交流があるのなら、と案内されたのが、魔術師たちが『夜の一角』と呼ぶ星降城下の一区域。その中にある、店舗一体型の居住だった。長く買い手が付かないのだという通りに埃っぽかったが、作りはしっかりとしていて、なにより三人で住むにはちょうど良かった。
 じわじわ様子を伺っていた、コルの商人としての繋がりを復活させても、そこから過度な疑いが『お屋敷』から向けられることもなく。三人は相談して喫茶を開くことにして、その場所を買ったのだった。さすがに一括で買い上げるだけの元手はなく、なんの保障もなく。それでも分割して支払う契約を、地主は苦笑しながら受け入れてくれた。スピカを見て、ディタを見て、なにか察する顔をする者もいたけれど。察したからこそ、深く問うこともなく。その場所がちょうどいいだろう、と彼らは口をそろえて、三人を『夜の一角』へ閉じ込めて匿ってくれたのだった。店を開店させる準備は、楽しかった。
 住まいを整えるのと同時に進めたから、苦労は多いばかりだったが、思い返せば楽しいことばかりで。そうしてようやく、開店を迎えたその日に。両腕いっぱいの花束を抱えて、ジェイドはおめでとう、と笑ってやってきたのだった。あの日以来、はじめて。それから数年に一度、訪れることが多かったのだが。ここ一年程は一月に一回、あるいはそれ以上の頻度でこうして顔を出しては帰っていく。
「ところで、最近忙しいと聞いていたのだけれど、無理はしていないんだろうね?」
「んー? うん、してない、してない」
「それは世間一般的な基準での判断なのだろうね?」
 手を取り立ち上がりながら問うと、ジェイドはにっこりと笑ってちいさく首を傾げてみせた。後光がさすような笑みである。うっかり絆されそうになりながら、これは違うヤツだろうな、とコルは判断した。まったく、と苦笑しながら手を引いて歩き出す。かぼちゃを数箱、届けてもらう手配だけをすれ違いざまに店主に頼み、あれ、と言わんばかりの顔をするジェイドを引っ張っていく。
「え? あれ? いいの?」
「いいよ。手配はした。……夕食は? 食べたのか?」
「ごはん? これから一緒に食べに行くんだよ?」
 ね、と微笑みかけてくるジェイドに、コルはため息をつくような気持ちで頷いた。いつものアレである。許されし事後報告である。まあ、コルも食事はまだであったので、構わないのだが。今日はあと誰が、とコルが問うより早く、連れて歩かれるジェイドが、道の先に目を向けて華やかに笑う。ぱぁああ、と音が聞こえてきそうな、輝かしい笑み。
「ラーヴェ! ディタ、スピカさま! ふふ、スピカさまは今日もとびきり可愛らしいですね。ご機嫌麗しく?」
「ジェイド。控えて」
「えっ、なにを? あ、ラーヴェ、リボン似合ってるね。かわいい、かわいい」
 うんざりした顔で注意してくるラーヴェを、ジェイドが雑に褒めている。そういうことじゃないんだよ、と遠い目をするラーヴェに、気にしてないよありがとう、と笑うディタと、嬉しそうに照れくさくするスピカが追いついて並ぶ。夜が深まり行く中で、穏やかな会話が交わされていく。その光景と、その幸福を。いつかは描くことができなかった。今は日常のものとして、すこし、深く、安堵する。コル、と不思議そうにディタが呼ぶ。どうしたの、行こう、と呼ばれて、コルは頷き。ジェイドの手を取ったまま、そうだね、と笑って歩き出した。



「えっ? なんで手繋いでるんだっけ?」
「ジェイドが迷子にならないように」
「ならないよ」
「なるよ」
「なる」
「なるから」
「もう、ジェイド? 駄目よ。おてて繋いでいなくっちゃ」
「……え、えぇ……? うん……。はい……。えぇ……」

 

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